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第3766日目 〈桜木町で、人混みのなかで、気づけばあなたを探している。〉 [日々の思い・独り言]

 ぼくはいちどもマスクをはずしたあなたの顔をみたことが、ない。それでも今日、すれちがい様にあなたとわかったのは、なんども夢のなかで素顔のあなたに逢っていたから。
 入院中、パソコンの不要なファイルやフォルダを、自分でもそら恐ろしくなるくらいのいきおいで削除した。ゴミ箱のなかみがすべてなくなるのに二分もかかったなんて、はじめてのことだ。
 そのあいだにかんがえたこと──自分の記憶を任意に削除することができたとして、最後まで手をつけない領域は、なにか? 家族との思い出、あなたといっしょに仕事した一年とその後の偶然のすれちがいの想い出。これだけは……。
 ホームであなたとすぐわかったのは、髪型と着ている外套の印象が当時のあなたとかわりなかったこと、なによりも涼やかな目許。……身長? んんん、それは否定できない。
 すぐわかったけれど、すこし行きすぎてから振りかえったのは、声をかけたらあなたが怯えてその場を移動してしまうのではないか、不審者扱いされて駅員室に問答無用で連行されて病院の外来ですっかり体力を消耗している状態で何時間も詰問される危惧を抱いたからだ。みみっちいね。
 振りかえったとき、一瞬ながら目があったように感じた。気持の変化がまるでないと知った。
 もうあなたは手のとどかぬ場所にいる人なのだろう。帰れば待つ人もあるだろう。でももし、そうでないならば──満身創痍の状態でどうにか生の世界に踏み留まっているようなぼくなのだが、いっしょに暮らしてほしい。着の身着のままで構わない。事前の準備は必要だけれど。
 「我我は彼女を愛するために往々彼女のほかの女人を彼女の身代わりにするものである」(※)──あなたに代わることのできる女性なんて、この世のどこにもいません。
 上書き保存も削除もできない愛ほどつらいものはありません。◆


※芥川龍之介『侏儒の言葉』「身代わり」 『芥川龍之介全集』第7巻P226 ちくま文庫 1989/07  ──新潮文庫の芥川作品集、どこにしまいこんじゃったかなぁ。こちらを出典にしたかったのに□
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第3765日目 〈入院、退院、帰宅、それ以後。03月07日までの記録。〉 [日々の思い・独り言]

 2024年──
 01月01日(月)午前5時、救急を要請。午前6時、かかりつけのみなとみらいの病院に搬送。
 同日午前8時入院。
 03月01日(金)午前11時に退院、夕刻帰宅。
 03月04日(月)、初外来。8時30分、採血、入院中の採血注射跡、内出血、アザ等目立ち満身創痍。→10時頃から赤血球と血小板の輸血。15時頃会計済ませて買い物して帰宅。
 03月07日(木)、外来。スケジュール、及び輸血内容、上に変わらず。早くも内科治療室の常連と化す。主治医曰く、わずかずつながら回復傾向の由。悩み事の相談、主治医でも見当つかずとぞ。→会計終えて、丸善にて必要資料の『孟子』購い、そのままみなとみらい線で馬車道。スタバにて懐かしき人たちと再会、コーヒー二杯、ピザトーストとドーナツを食す。だんだん常態に復すようこれ努めなくては。
→17時40分頃、市役所のなかを通り、市役所側改札から桜木町駅。おはらななかを見る。マスクはずしている素顔美しくも愛らしき。18時過ぎ、自宅帰宅。
 ずっと誰に頼ることもなく自分の足で病院からスタバを経由して帰宅できたこと、体力回復の兆候ありか。でも、無理はしないこと。適度に休んで水分補給すること。なによりも人混みではマスクして、感染症に注意して、転ばないように、ぶつからないようにすること。
 今日の励みはやはり桜木町駅のホームですれちがいではあっても、出合えたことか。こう書くと、警戒されるなぁ。でもこれ以外に書きようがないのである。
 今後は週に二度、採血・輸血のため、外来がある。今月の後半には3回目の化学療法(抗がん剤治療)がある。はぁ……。◆

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第3764日目 〈病床からのレポート──2024年02月25-26日「白峯」下訳進捗篇〉 [日々の思い・独り言]

 退院までに「白峯」の下訳を終わらせたい。たとえ不十分なものであったとしても。
 それは現実になった。
 本篇最後までどうにかたどり着いたのだ。02月11日からまだ「なんちゃって」レヴェルに過ぎぬ筆を執り始めて、毎日1時間から2時間をこの作業に費やして、今日02月25日午前に終いの一文、「かの国にかよふ人は、必幣をさゝげて斎ひまつるべき御神なりけらし」へ至った。
 化学療法が始まるまでに少しでも作業を進めておきたい。その一心から、修正テープと茶色のペンを片手に読み返しを行いながら、細かな字句修正やまるまる一文の手直しを始めたのだ。
 でも、本当の意味では、下訳は完了していなかった。冒頭、東国歌枕の道行と崇徳院の荒れ果てた行在所での描写は、ほぼ手抜き状態の訳と最初からわかっていたけれど、……まさか読み進めるうちに同様の箇所が幾つも見つかるとはおもわなんだ。
 仮訳もできぬ状態だったか、原文を引いた箇所や、たといそうでなくともそれを示す記号も付けず場面一つをすっ飛ばしていたり、ほとほと頭を抱えこむ事態に遭遇しながら作業中……。
 訳文の修正は後回しにして、まずは抜け落ちている場面を翻訳しなくてはならない。……一、二箇所であれば、採血とほぼ100%輸血がある明日であっても、体力と気力次第でどうにかなると思うんだけれど──果たしてどうなるんでしょうね?◆(24/02/25)

翌日追記
 抜け漏れのあった場面の下訳は終わった。あとは上にも書いたように細かな字句修正や段落全体の訳し直しなどである。
 訳し始めた最初の頃の文章は、なぜか文意が通じなかったり、文脈を完全に無視した代物になっており、頭を抱えてしまう程の出来の悪さ。
 が、そうね、『孟子』の易姓革命あたりからと、一旦最後までたどり着いたあとで訳した冒頭くらいになれば、茶色の修正も前半に較べれば、ぐっ、と減るんではないか、と期待している。
 さてどうなりますか。□(24/02/26)

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第3763日目 〈病床からのレポート──2024年02月17日「おはらななかへの大嘘と「白峯」翻訳」篇〉 [日々の思い・独り言]

 おはらななかへの想いを未練がましいものにしない為、居もしない奥さんと子供の話をでっちあげて、自分のまわりを〈大嘘〉という名の壁と濠を張りめぐらして整理して、そろそろ3年が経つ。「敵を騙すには味方から」を実践しなければならなかったのは些か慚愧に堪えるけれど。
 このお陰で、さいわいとおはらななかは自分の求める幸せを摑み、いまは子供も生まれて静穏無事に暮らしていると想像したい。これぞわたくしが望んだ彼女の未来、おはらななかにもわたくしにもWin-Winな世界の訪れである──そう思おう。幸あれ。
 考えてもみろ、おれが幸せに家庭を持てる立場であるわけないだろ。

 さて、話題を変えて。

 春一番の吹く少し前、化学療法の副作用期を脱する頃。気分の安定する日が目立ってきた。その頃から始めたのが、『雨月物語』巻頭を飾る「白峯」の翻訳である。
 ポツリポツリと好みの怪談を見附けては気儘にお披露目している「近世怪談翻訳帖」の一つを成し、『雨月物語』からは「浅茅が宿」に続く翻訳となる。
 当初の予定では、──というのはつまり、入院なんて事態に出喰わさなければ、「吉備津の釜」もしくは「貧福論」の現代語訳のはずで、それに関してはかつてここでもその旨表明した(覚えがある)けれど、それを思い立って「白峯」に変更したのは、──
 男の軟弱さと女の憎念を描いた「吉備津の釜」やお金にまつわる「貧福論」は、ちっとばかしこちらの神経に障る点あって、翻訳できないなぁ到底無理だよ、精神的にかなりきつい。気が滅入る。ならば歴史に材を取った怪異を扱えど崇徳院と西行法師の問答で話が前へ進む「白峯」に手を着けるのが精神衛生上すこぶる健全、賢明と判断した次第。
 たまたま『平家物語』をきっかけにして、崇徳院対鳥羽院の皇位を巡る争いを描いた『保元物語』と平家と源氏の武士勢力が初めて正面から激突してその後の日本史の流れをほぼ決定づけたというてよい『平治物語』を読み返す気になっていたので、案外とこのタイミングで「白峯」翻訳は理にかなった行為であったかなぁ、と考えている。
 いつ退院できるかわからないけれど気持の上では既にその心づもりで動いている日々である。できれば病院にいる間に第一稿に先行する下訳は不完全ながらも最後まで完成させておきたい。未完成の傑作よりも完成した瑕疵だらけの原稿の方に価値はあるのだ。──どなたか異論はおありだろうか?◆

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第3762日目 〈病床からのレポート──2024年02月09日「夜明け前のみなとみらいを脇目にしながら」篇〉 [日々の思い・独り言]

 諸君、おはよう。おはようとしか言い様のない時間に、これを書いている。
 只今午前6時12分、まだ外は暗い。闇夜である。先刻ブラインドを開けた。マンション屋上の公園や道端のイルミネーション、生活臭が感じられない海の向こうの白銀灯、ちらほら混じる小さな灯りの群れ群れ群れ、港湾の埠頭の突端を示す橙色の灯し火。それだけである、みなとみらいの街をどうにか彩るのは。
 目が覚めて窓のブラインドを開けたり洗顔したり、この時間の病棟の様子を知りたい一心も手伝ってロビーへアクエリアスを買いに行った。戻ると、疲れが一斉に出た。ベッドでぐったりしているところへ看護師さんが来て、点滴の仕度を始めてゆく。起床時間05時から1時間以上経過してこれを書いているのは、そんな夜明けの散歩とMac Book Airの準備に手間取ったからである。
 それにしても病院って、本当に24時間稼働の現場なのだね。故あって個室に入っているため大部屋の状況はわからないが、少なくとも個室に関しては、殆どの部屋に電気が点き、そこにそれぞれ夜勤の看護師さんたちがいて、入院患者の採血やら検査やら、点滴や輸血やら、それぞれの作業に専心している。廊下から見るその後ろ姿はとても心強く、どんな職業のどんな立場の人よりも凜々しい。ジャンヌ・ダルク──その名前しかわたくしは彼女たちの姿を見て思い浮かべるところがない。
 阿鼻叫喚。やはり病棟ゆえ様々な人が入院している。夜半に止むなく奇声を発する事でしか意思表示できない人たちに較べれば、こんな早朝から呑気に原稿を書いていられるわたくしは、まだ幸福の部類にカテゴライズされるのだろう。
 朝まだき。──みなとみらいの街は、曇り空の向こう側に確かに存在する太陽の恩寵の下、漆黒の闇からゆっくりと建物群がその輪郭をはっきりさせてきた。いい換えれば冒頭で述べたような人工の灯し火の美しさは徐々に影をひそめてゆく、と云う事だ。それでいい。これからは人工の光ではなく、自然光が世界を統べる時間である。
 早くも通勤途上の人の姿や、明らかな社用車の姿が目に付き始めた。
 病院の周りで、街は、動き始めた。

 ……で、この前から気に掛かっているんだけれど、あすこにかすかに見えているのって、東京タワーだよなぁ。もうすこし窓が西側へ向いていたら、クイーンズタワーと同じ位置になるから東京スカイツリーや羽田空港を離発着する飛行機が見えたりするんだけれどね。
 ただそれだけの小っちゃなお話っす。◆

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第3761日目 〈病床からのレポート──2024年02月07日「初めての洋古書」篇〉 [日々の思い・独り言]

 平井呈一の愛撫してやまぬ小説があるとすれば、それはホレス・ウォルポール『オトラント城綺談』であったろう。入院中に読んでいる(何度目かの読み直しをしている)荒俣宏『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』と『平井呈一 その生涯と業績』を通してひしひしとわかってくる。
 擬古文と現代語の両方で翻訳を残したと云うばかりでなく、手彩色の図版が入った19世紀だか18世紀だかの版本を、殊の外大事にされて誰彼に見せるときは胸に抱えて隣の書庫から大事そうに持ってきたそうだ。このあたり、荒俣氏の『稀書自慢紙の極楽』や『ブックライフ自由自在』等の記憶と重なっているところがあるので、自伝と師の年譜に載るところとはくれぐれも信じこまないで欲しい。
 そんな事を思うているとプルーストのプチ・マドレーヌと紅茶の挿話の如く、記憶がじんわりと甦ってきて、モルヒネや多量の内服で朦朧となったこの脳ミソでも思い出せる一冊があるのに気が付いた。わたくしにもそうした、後生大事に抱えて大切にページを繰ってウットリしてしまう生涯の一冊ともいえる本が(にもかかわらず忘れていた?)あることに。

 わたくしは元々ロマンティックな物語に気持を誘われ、そちらを愛する事一入の人間であった。その世界の奥の奥・底の底・端の端までのめり込み、その世界を追体験したり再創造した作物あらばそれを追い続け、また己で創作までしてしまう。
 その過程でひょんな事からオペラを知り、窮極というてよろしかろうワーグナーの楽劇群に到達するのは必然だった。もうわたくしが何の作品について話そうとしているか薄々お分かりの読者諸兄もおられよう。然様、『トリスタンとイゾルデ』である。

 思えばワーグナー以前に中世フランスの王侯貴族を主人公に仕立てたほぼ同プロットの、中世期に書かれた詩劇の翻訳を岩波文庫で読んでいる。『トリスタン・イズー物語』である。これを鏡花や三島と同じ時期に読んでいた時点でわたくしも分裂症の兆しを持っていたのかもしれないが、とまれ十代というのは咀嚼力も何もかも抜群に〈雑食性〉という点で抜きん出た恐ろしくも幸福な年齢なのである。
 思えば当時、『トリスタン・イズー物語』以外になにを読んだかというと、外国文学で云えば、『嵐が丘』とホームズとキングとラヴクラフトを除けば古い、古い詩劇が専らで、中世ドイツの英雄詩『ニーベルンゲンの歌』、ブルフィンチではなくゲルハルト・アイクが書いたアーサー王物語を中心とした『中世騎士物語』、ちょっとこれは高価だったから図書館で借りては読み期限が来たら返却してまた借り出してを一年近く繰り返したヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』、初めてのアルバイトで得たお給料ほぼ全額を費やしてでも欲しかった混沌たる薄闇色を湛えた北欧神話のテキスト『エッダ』と『カレワラ』、『サガ』の四冊セットであった。
 ──もう笑うしかないではないか。これはみな、その延長線上にリヒャルト・ワーグナーと云う人物が鎮座坐して、わが趣味関心興味嗜好のすべてがそこへ流れこんで、ワーグナーの作り出す音楽と言葉の〈法悦〉に煩悶させられるのを約束されたようなものなのだから。

 話がそれた。『トリスタンとイゾルデ』である。
 20代の初め、いつもは敷居が高くて学生として通っていた時分も含めて避けて通っていた(敬して遠ざけていた)神保町の洋古書店の二階で訳もわからぬまま、読めもせぬ横文字の洋古書載せ文字を追っていた。懐がそれなりに温かかったのかもしれない(中山正善程でないにせよ)。建設現場での毎日鉄鋼運ぶ肉体労働か大学生協での仕事の給料でも入ったとは思うのだが。とまれ、決意を固めて洋古書店の、人気のない、店員だけの二階へ上がった。奥へ行く勇気などとても無い。階段を登ったあたりからゆっくりと移動する怪しげな男を、店員がどう思ったかは知らない。そんな事に気を配る余裕なんてなかった。なにしろこちらも初めての場所で初めての買い物をしようとしている、腰の抜けたチキンだったから! 冷や汗、脂汗、たっぷり掻いてたな。
 そんな拍子に飛び込んできたのが、焦げ茶のスリップケースに収まった、本体は小豆色の他より薄めの洋古書。タイトルは辛うじて読み取れた……『Tristan and Isolde』! 
 当時既に平井翁の『オトラント城綺談』原書のエピソードは骨身に染みついて覚えていたから、その手彩色の挿し絵の素朴さもしっかり脳裏に焼きついていた。いま自分が手にしている『Tristan and Isolde』にも同じように、味わいのある素朴な挿画が付されている。
 欲しい、と思わんほうが可笑しい。最愛のロマンティックな物語の洋古書が手許にあるのだ。恐る恐る値札を確かめると……拍子抜けした。腰が抜けたというてもよい。つまりそれは、いまの自分でもじゅうぶんに買えてまだたっぷりと余裕がある、と云う価格だったのだ。もはや怖がる事はない。わたくしは客である。堂々とその本をレジへ運んで、精算し、其れでも店舗を出たらしばらくの間は紙包みされた『Tristan and Isolde』を胸に抱えこみながら、神保町の路地裏にある喫茶店まで脇目も振らず駆けこんだてふ思い出がある。値段を安く書きこんで売ってしまったのに気づいた店の人が追いかけてくるのを恐れたのかもね。いまとなっては初々しい話だ。

 最愛のロマンス詩劇に、わたくしは淫蕩した。

 平井呈一は『オトラント城綺談』を擬古文と現代語の両方で我らが読めるようにしてくれた。
 それを知るわたくしは必然的に、自分もこの愛すべきロマンスを自分の日本語で残したい、自費出版で構わぬから自分の訳書としてこの世に遺してゆきたい、と思うた。
 が、記憶が定かでないのだが、或る時愛用のプログレッシブ英和辞典片手にちょっと訳してみようと考えた事があって挑んだのだが、載っていない単語に最初からぶつかって難渋した記憶がある。と云う事はもしかするとこの『Tristan and Isolde』、古英語で本文が書かれているんではないかしら、と逆に恐怖せざるを得なかった。
 でも、大丈夫、わたくしの後ろには三田のメディアセンターがある。旧図書館もある。塾員である事を力強く思うことも、そうそうない筈なのだが活用し切れていないのは……地便の不利、で片附けましょうか。

 とまれ、みくらさんさんか訳『Tristan and Isolde』と、エミリ・ブロンテ『嵐が丘』は実現させて逝きたいですね。◆

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第3760日目 〈病床からのレポート──2024年01月25日篇〉 [日々の思い・独り言]

 なんだかずいぶんとおひさしぶりの更新になった。パソコンを立ちあげるだけの体力も気力も失われて、伸ばし伸ばしになってしまっていた。外に特に意味や理由はない。幸か不幸か。
 脱毛、食欲不振、排尿量の激減、37度台後半から39度台前半を行き来する体温、その他諸々。これまで経験したことのないような出来事が、時間差でわたくしを襲う。体力と気力をどんどん奪ってゆく。悪夢にうなされる。これまでの人生のツケを払わされているような錯覚さえ抱く。いや、警察のお世話になるような悪さをしでかした過去があるわけじゃあ、ないけれど。
 最近、死者の夢を見る。これは、悪夢ではない。身内だけでなく親戚や友人、知人が、訪れたことのないような場所で、わたくしと朗らかに談笑し、逍遙したりゴルフや釣りに興じたりして、刹那の幸せの時間を過ごす。愛しい死者と夢のなかで出逢うのは、高熱に魘されてではあるまい。心の奥底で無意識に、かれらと逢うことを願ってやまなかったからだろう。そう信じる。でも不思議とあの子は夢に出てこない。
 正直なところ、毎日が辛い。なんの痛みや苦しみとも無縁でいられる日なんて、ここ一週間を顧みてもとんと記憶にない。穏やかな日が最後にわたくしに訪れたのは、いつであったかしら。むろん細切れの時間であれば、静穏な時間を過ごすことも平均2時間くらいはある。いい換えればそんなときくらいなのだ、落ち着いて読書や書き物に励むことができるのは。

 ──次の更新はいつか? わからない。退院日さえ未定である。
 更なる内服や点滴、検査等がわたくしの日常を狂わせる。医療用麻薬が投与されている状態でもあるからいつだって意識が鮮明でいられるわけではない(わたくし個人の感覚で、斯く申し上げる。みながみな、そういう状態であるのではないことを、読者諸兄には正しくご理解いただけることを切に祈る)。まぁ、時々ディック紛いのイカレポンチな世界の夢も見るけどな。
 いつものように脳ミソが〈書く〉ことへ意識を向け出して、倩冒頭の一文や全体像を描けるようになったときは、Mac Book Airを立ちあげてキーボードを叩いてお披露目できるような文章を綴ってお披露目できるようにしよう。なんというてもいまは、これ(本ブログ)だけがわたくしの生存報告でもあるのだから。
 ちゃお!◆

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第3759日目 〈病床からのレポート──2024年01月16日篇〉 [日々の思い・独り言]

 化学療法の負の側面と、点滴にまつわる不安と恐怖で過ごした一日であった。絶望を一瞬でも感じた日は、入院以来正直なところ無かった。今日はそれを感じた点で、稀少なる一日にもなった……前向きに言っているつもりだが、心中穏やかならざることはお察しいただけまいか?
 負の側面とは?
 不安と恐怖とは? 
 あまりに生々しく、打ちのめされるような現実である。告白療法は無効であろう。斯く判断する。逃げているのではなく、もうすこしだけ、向き合う時間が欲しいのである。ただうっすらとした過去の記憶が、二冊の本の内容を呼び起こしてくる。〈チャーリー・ブラウンとビーグル犬スヌーピー〉シリーズのスピンオフと、アメリカのティーンエイジャーをメイン層にした安手のロマンス小説だ。……咨、確かにいまの自分と似通った部分はある。ぼんやりとした意識であっても首肯できる程には。退院できたら、さっそく書架を漁って探してみよう。

 それはさておき、シェイクスピアも当面の用事は済ませたので(突破口を開くこと!)、もう頭を使った作業は遠ざけることに決めた。純粋に読書を愉しむ方へシフトしたのだ。
 まずはキングの『異能機関』を読み始めた。読み始めた一昨日は快調に20ページ近く読めたのが、昨日今日は合わせて10ページになるかどうかの量、と来ては、もどかしいにも程がある。
 だって、キングですよ? 面白くてすいすいページを繰る指が止まらぬが当たり前ではないか。神様から下々へ与えられた福音の物語ですよ? 読み耽って当然ではないか。なのに、まぁなんという……。
 戦犯捜しは趣味でないから止めよう。しかし、わたくしはめげない。立ち止まるわけにはいかないのだ。悲しいことにわれら人間は有限の命の民なのだ。
 明日は『異能機関』の下巻を持ってきてもらう。正月休みに読もうと決めこんで買ったままなアーサー・マッケンの『自伝』と、モチベーション維持に必要な荒俣宏のこれまた『自伝』と平井呈一の年譜と作品集も。
 中村真一郎は40代の頃であったのか、神経症かなにかに悩まされて、医師から長いものを読んで療養せい、と言われた。そのとき中村が選んだのが江戸漢詩を多量に漁読、あげくには頼山陽の日記をひたすら読むことに相成って、名著『頼山陽とその時代』を(病癒えたる後に)書いた。これは、学生時代からの愛読書の一つである。
 ……その顰みに倣うつもりではない。が、今のような状態であるとき、国内作家による取り柄のない小説を読むのは却って症状を悪化させるだけだ。事実をだらだら綴った読み物の方が、余程気持ち良い時間を過ごせる。
 マッケンや荒俣をお願いした裏の事情でもある。
 
 と、もう消灯時間を過ぎている。個室とはいえ、それはいけないことだ。
 かなり中途半端であるが、擱筆とする。いちども読み返さずに来たが、いつものことだ。
 それではまた、次回!◆
2024年01月16日 22時08分

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第3758日目 〈病床からのレポート──2024年01月15日篇〉 [日々の思い・独り言]

 題材;案

 本稿で、北国中原街道の女将について書く。
 本稿で、近江の大人(実話怪談作家)について書く。

 共に顕彰。出会えたことの感謝と、その後のわたくしの人生に与えられた潤い。
 生あるうちに。◆

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第3757日目 〈病床からのレポート──2024年01月11日篇。〉 [日々の思い・独り言]

 退院日がどんどん遠くなっている。個室に閉じこめられて窓の外を見ていると、ラプンツェルやクラリスは、或いはアナスタシアはどうやって日々の憂さをやり過ごしていたか、疑問が浮かぶ。見えぬ所に侍従や監視役を置かれている彼女たちは、視点を換えればいまのわたくしと同じでないか。
 入院して十日以上になる。症状は一進一退、痛む部位も痛みのレヴェルも、時々刻々と変化する。これから自分は、いったいどうなってしまうのか。不安は尽きぬ。
 とはいえ、悪いことばかりでもない。支えてくれる人たちにはこちらの都合が優先するゆえに甚だご迷惑をお掛けしている部分もあるが、これもまた視点を変えれば、これまで取り掛かることのできなかった積み残したあれやこれやを片附けていく機会にもなるのに気がついた。
 なにより喜ばしいのは、末端神経にまで喰いこんでなかなかその全部を払拭できなかった腫瘍……毒素を完全追放する好機が得られたことだ。
 本来ならばもっと以前に、この作業には取り掛かるべきだった。わたくしを壊し続けた諸悪の源を根絶できなかったのは、意志の弱さの表れだ。が、いまはもう違う。いろいろな要因が積み重なって、根絶の機会を得た。そうしてそれは殊の外簡単に片附いて、その効果を少しずつ実感している。これがなによりの慶事。

 いまは、痛みと闘いながらも懸念事項が一つ、取り払われた清々しさを味わいながら、シェイクスピア『ヘンリー六世』読書ノートに向けたメモを、乱れた字でモレスキンに書きこんでいる。きちんと読みこもう。歴史的背景についてもうすこし詳細な情報が欲しい。そうなると、途端に病室は書庫と化すから、むろんこれは避けるとしても、却って一冊の本からどこまで情報を引き出し、綜合させることができるか、考えを巡らすことも可能なのだ。
 ただ、勿論、こればかり読んでいるのではない。わたくしは研究者でもなんでもないのだ。キング『小説作法』を読んで感じるところあればそこだけ反復したり、ページの端を折ったりしている。
 その傍らで「ヨブ記」〈前夜〉を忘れているわけでもない。現在のわたくしを見舞う痛み、苦しみは、まさしくウツのヨブが経験したと大差ない。聖書の人物を自分へ限りなく引き寄せようとすると、ほんのわずかの(表面上の)共通点に縋り、そこから発想や思考を広げて深めるしかないのだ。エレミヤが、そうだった。烏滸がましくも、イエスがそうだった。
 このように持病の悪化であれ、理不尽に突然襲いかかった肉体への不幸であれ、人はほんのわずかでも己と共通する点を持った人物に希望を託し、また、その姿に慰めを見出すのである。
 とはいえ、日々のルーティン作業とするに如くはない。要するに、どこかで飽きてくるのだ。同じことをやっていると、体に負担がかかってしまう。寝っ転がって気儘に読書ができれば良いけれど、痛みが集中するのは背中から腰、両脇腹である。そんな格好で一定時間を読書に耽るのは、案外と苦行なのである。それにしても気分転換に、小説読みたいなぁ。◆

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第3756日目 〈病床からのレポート──2024年1月5日編〉 [日々の思い・独り言]

 元日以来のお目通りとなります。みくらさんさんかです。

 本日入院計画書が作成されました。
 原因は、持病の一つである「慢性リンパ性白血病」の「急性憎悪」と診断。
 化学療法が金曜日から始まりました。
 さいわいと余命宣告が出る程では、ない(誰だ、舌打ちしたの?)。
 当面の間、体調優先で暮らすため、本ブログは不定期連載となります。ご承知置きの程を。

 それでも暇な時間はできてしまうので、特にテレビを視る趣味もないわたくしは、消灯までの二時間弱を使って、並木浩一『「ヨブ記註解』と井上神父のペトロ伝を読みます。◆

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第3755日目 〈病床からのレポート ──2024年01月01日篇。〉 [日々の思い・独り言]

 そうはいうても「レポート」の体は成さないことだけは、いまからはっきりわかっている。

 みくらさんさんかは令和6/2024年01月01日午前6時頃、かかりつけの病院へ緊急搬送された。例の、首の腫れから腰に至る背中の各部位に、これまでに記憶がない程尋常でない痛みを覚えたからだ。数時間は我慢したものの遂にそれも限界に達して、救急を頼ることにしたのである。午前05時20分頃か、119番通報をしたのは。
 10分くらいで地域救急が到着した。車内ではかかりつけの病院が受け入れできない場合、他へ行く可能性もあるといわれた。仕方のない話だ。時期が時期だからね。が、かかりつけの病院へ運んでほしかった。いちばん話がスムースに進み、自分のカルテもあり、なにより三が日明けには診察の予定が入っていたから。
 結論を述べればかかりつけの病院に上記の時間に到着して、しばらくは痛み止めの点滴をした。その間も痛みは絶え間なく襲いかかり、脇腹と背中の左側が殊に痛むとあってはおとなしく横になっていられようはずもなく、悲鳴と苦悶の声をあげながら(我慢できるレヴェルを越えていた)、時間を過ごし……脂汗がじんわりと頭皮に浮かんでからは首や背中にかけてひっきりなしに出てくるわ、吐き気を覚えて吐こうにもそのたび背中が痛むわ、……正直なところ、もう生きた心地がしなかった。
 それでもCTやレントゲン、心電図の検査を済ませて当直医の仰るには、確実に悪くなっている、と。いつ基準で「悪くなっている」なのか聞きそびれたけれど、前回クリスマスの時だとすればこの短期間で症状は斯くも悪化したことになる。看護師の方も、晦日の日からいまの痛みが続いている、というたら、よくそんなに我慢できたね、と同情の声(と捉えたい)をあげてくださった。
 その後、痛み止めの点滴が多少なりとも効いたのか、背中や腰の痛みは我慢できる程度まで落ち着いた。午前8時頃である、みなとみらいの眺めを横目にできる病棟の個室に移動したのは。これからの生活に不安を感じ、自分の痛みを冷静に分析しながら、時を過ごした。その間、病棟の看護師さんや、宿直の内科医の先生、薬剤師の方がお見えになり、検査や問診があった。民については、年末に処方された薬が効かなくなっているので新たにもう一種類、追加で出された。要するにわたくしは、朝昼晩就寝前と痛み止めの薬2種類を服むことになったのである。
 昼から普通のご飯が出たけれど、「食べたい」「食べなくては」と思いはするもののどうしても箸をつけられず、ご飯と果実の他はまったくというてよい程食べられなかった。逆に先程終えた夕食は、ご飯をはじめ魚や煮物などすべて食べられたのだから、内心安堵した部分が多々ある。
 また首の腫れの痛みが強くなってきたので、本稿はそろそろ擱筆とする。文意の通じぬ箇所幾つもあろうが、状況が状況ゆえご勘弁願えれば幸甚である。
 それにしても、元日から入院とはな……かかりつけの先生による診療がすべて終わって退院するまでと聞くから……あと何日ここのお世話になるのだろう? 母のみならず自分までとは。◆

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第3754日目 〈令和5/2023年 よかった本、がっかりな本、だめな本。 〉 [日々の思い・独り言]

 喪中のため新年の挨拶や「本年もどうぞ……」なんて元日のテンプレ文言は一切差し控える。
 
 タイムリミットが迫っている。買い物帰りに体を休めんと寄ったカフェ、今日は閉店時間が十七時と云々。執筆を企んでいた短文は、果たして残り三十分で書けるだろうか? 時間はない。go ahead.

 手帳に書き留めて可視化した所以もあるのか、顧みて2023年はやたらと本を読んでいた一年だった。その数はせいぜい二百冊(作)を少々超えるという程度だが、「今年の読書量は三六〇余冊でした、ぜんぶ(現代の軽い)小説です!」なんてTwitter(現X)の腐乱死体が臆面もなく述べ立てるものよりは中身で勝負できる書物ばかりであった、と自負できる。……咨、勿論このなかに仕事で必要になって目を通した本は一冊もない。お断りしておく。そんなもの、読書の筈あるか。
 で、そのなかから「よかった本」「がっかりな本」「だめな本」を数にこだわらず選んでゆくのだが、以下に挙げるのはあくまで現時点(12月31日 23時09分)でのセレクトであり、今日残りの時間で変化する可能性はじゅうぶんにあり得る。あらかじめ申し伝えておきたい。但しそれは「よかった本」に限った話。「がっかりな本」「だめな本」の変更はない、追加はあろうけれど。
 スティーヴン・キングとP.G.ウッドハウスの小説については敢えてリストから外した。「よかった本」に入るのは読む前から当然であり、また外すことで他の本に陽の目があたるのを優先したからだ。再読本も含めていない。なお、これはあくまで<読んだ本>であり、<出版された本>ではない、といわずもがなのことを言い添えておく。
 それでは以下、順不同で、──

 ○よかった本
 青木理  安倍三代  朝日文庫
 杉原泰雄  憲法読本 第4版  岩波ジュニア新書
 山本芳久  キリスト教の核心をよむ  NHK出版
 大田俊寛  一神教全史(上下)  河出新書  
 山本博文  歴史をつかむ技法  新潮新書
 清水加奈子  死別後シンドローム  時事通信社 
 三浦優祐・小野純一  アーカムハウスの本  書肆盛林堂
 G.K.チェスタトン (生地竹郎・訳)  聖トマス・アクィナス  ちくま学芸文庫
 ヘンリ・ナウエン (渡辺順子・訳)  傷ついた癒し人  日本キリスト教団出版局
 ナポレオン・ヒル (田中孝顕・訳)  思考は現実化する  きこ書房
 エーリッヒ・フロム (鈴木晶・訳)  愛するということ  紀伊國屋書店
 フラウィウス・ヨセフス (秦剛平・訳)  ユダヤ古代誌、ユダヤ戦記  ちくま学芸文庫
 スー・スチュアート・スミス (和田佐規子・訳)  庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒やす庭  築地書館
 ヨン=ヘンリ・ホルムベリ編 (ヘレンハルメ美穂他訳)  呼び出された男 スウェーデン・ミステリ傑作集  ハヤカワ・ミステリ
 Jake Ronaldson  The Gandhi Story  IBCパブリシング


 ○がっかりな本
 大崎梢  横濱エトランゼ  講談社文庫
 北村薫  遠い唇  角川文庫
 北村薫  雪月花  新潮文庫
 阿刀田高  ストーリーの迷宮  文春文庫
 綾辻行人  Another 2001(上下)  角川文庫
 ※これは、もう二度と読むことないだろう人たちのリストでもある。綾辻は『双子館の殺人』が最後になる。

 ○だめな本
 渡辺祐真・編  みんなで読む源氏物語  ハヤカワ新書

──以上。

 年が明けた。
 神社参道に面するわが家だが……咨、外うるせえ。◆

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第3753日目 〈読み続けていれば。読み続けるには。〉 [日々の思い・独り言]

 英語の多読と同じで読書体験を重ねれば、だんだんと上のレヴェルの本が読めるようになってゆく。内容が手に余るとか支障はあるだろうけれど、ずっと読んでいれば、これまでよりすこしだけ専門的な本を手にしても、どうにか読める、まったくわからないわけじゃぁない。
 実体験だ。日本の古典文学についても、聖書/キリスト教についても。
 ただ大事なのは、英語多読の入門書でもいわれているが、ときどき易しいレヴェルの本へ立ち返って自分の興味を「そこ」へつなぎとめる、難しめの本ばかりで凝り固まった脳ミソと心を休ませ回復させる、という二点。
 怠ると、たちまち知的硬化を招いて読書がイヤになります。本当のことである。◆

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第3752日目 〈親しき人、ヨブ。〉 [日々の思い・独り言]

 旧約聖書に収まる「ヨブ記」とは身に覚えのない罪によって肉体的苦痛精神的苦痛を味わわされた男の、神を呪詛する物語である。友ならざる友が好き放題に喚く身勝手ステレオ・タイプの主張に悩まされる男の話でもある。信仰が本物かどうかを試される男の話、というのが一般的にいわれるところ。
 最初に読んだとき、なんて難解な書物だろう、と何度頭を抱えたことか。いまでも難解という印象に変わりはない。繰り返し本文へ目を通しても、幾種かの註解や研究書を読んでみても、肝心の部分は未だ濃い霧のなかにある。
 斯様な状況にありながらもちか頃は、突破口となりそうなものを見附けた気がしている。「ヨブ記」に抱く難しさにかわりはないが、その内容・思想へ迫る取っ掛かりを、得たように思う。
 突破口とは、いまわたくしが味わっている肉体的苦痛である。それが生み出す不安と絶望である。空想の力によって創られた、快癒への希望である。
 「ヨブ記」は、神なる主とサタンによって、永遠に続くかのような苦しみと痛みを味わう羽目に陥った、ウツの地に住むヨブという男の話だ。どうして? なぜ自分が? この苦痛を与えた──なんの罪もないのに不当の苦しみを与えた自分の神を、ヨブは呪う(サタンの関与をかれは知らない)。この苦痛から解放されるならば、とヨブは、神なる主との論争に正面から挑む。
 わたくしの場合原因は概ね判明していると雖も、やはり「なぜ、このタイミングで?」「なぜ、わたくしばかりが?」「わたくしがどんな罪を犯したというのか?」という疑問からは逃れられない。特に痛みがひどい夜中には、ありったけの呪詛の言葉を吐き続けた。
 咨、これはもしかすると──ヨブと一緒ではないのか。あのとき、ヨブはこんな気持だったのだろうか。だとすれば、自分はいまこそ「ヨブ記」がわかるような気がする──。
 この思いを失うことがなければ、そうして元気でさえいられれば、「ヨブ記」〈前夜〉への着手と初稿の完成は、案外と早そうだ。◆

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第3751日目 〈「マルコ」の再発見──『バークレーの新約聖書案内』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 咨、ウィリアム・バークレーとの出会いは、新約聖書の読書を始める直前と記憶する。頼りとすべき註解書を探す一方で、新約聖書全体を見渡す一冊の、自分にとって最適な一冊の本を見附けるべくあれこれ漁っていた──市の中央図書館の棚の前を行ったり来たり、背伸びしたりしゃがみこんだりしながら。
 そうやって見附けたのが、『バークレーの新約聖書案内』だった。いちばん下の、いちばん端っこにあった。スコットランド協会の雑誌に連載された、新約聖書を構成する二十五の書物について、各巻の中心になる思想、各巻がいわんとする大事な一点に絞って書かれたエッセイ群プラス序文と結語から成る『バークレーの新約聖書案内』は、本文二〇〇ページにもならぬ本である。この、一巻一点集中の姿勢が、新約聖書へこれからアプローチしようとしているわたくしにとって、いちばん身の丈が合うようだった。その予感は現実となり、九年が経とうとしている現在まで折ある毎に読み返す一冊となっている。
 とはいえ、いまわたくしの傍らにある『バークレーの新約聖書案内』は図書館の蔵本ではない──既に! 状態の良い古本が見つかったので、価格も送料込みで納得できるものだったこともあり、今秋に購入したのだ。ようやく、である。
 やはり手許に置いて読むのと、図書館で借りてきて読むのとでは、かなり違う。いつでも手に取れる状態にあるということは、読書に費やす時間はトータルで格段に増え、勢いその間の没入度も思考の度合いも濃密になる。自由に書きこめる、付箋を貼れる(貼りっぱなしにできる)メリットについては、いわずもがな。
 そんな利点だらけの現状でありながら、購入してから今日になるまで、最初から通して読む機会を設けなかった。単に他に読むものがあってあと回しになっていたに過ぎぬ。昨日読了した本があるのを機に今日、序文から読み始めた──今回もまた病院、診察の待ち時間と、そのあとのお楽しみなスタバにて。
 わたくしは本書で、「マルコによる福音書」の価値に気がついた。「マタイ」に続いて二番目に載る福音書が「マルコ」だが、執筆順としてはこれがいちばん最初。これを資料の一つに取りこんで「マタイ」と「ルカ」は書かれた。それゆえに、か、それゆえにこそか、か、「マルコ」は共観福音書のなかで最も簡素素朴で、余計なフィルターを通していないナマに近いイエスの言動を伝える書物になっている。というのもマルコは十二使徒の筆頭で初代ローマ教皇としても知られるペトロの従弟で、かれの語るイエスの言動をほぼそのまま伝えている、と目されるからだ。 
 ──素朴! それこそが「マルコ」を読みこそすれ内心軽んじていた原因だった。「マタイ」程劇的でなく、「ルカ」程調和が取れているわけでなく、「ヨハネ」程神秘的哲学的でもない「マルコ」。が、フルトヴェングラーの言葉を持ち出すまでもなく、偉大なものはすべて単純(素朴)である。「マルコ」に於いても然り。シンプルなお話は人々から愛されこそすれ、表面上の理解で止まってしまうことがしばしばだ。それはともすれば誤読を招き、誤解を引き寄せることになる。気をつけよ、偉大なものはすべて単純素朴にできている。「マルコ」とて例外ではない。否、「マルコ」こそ、その最善最良な証拠物件であろう。
 福音書のなかで「ルカ」をいちばん多く読み、「マルコ」をいちばん少なく読んできた。バークレーの導きに従って、これからは「マルコ」もちゃんと読もう。◆

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第3750日目 〈お詫びと現状報告。……わたくしは挫けない、前を見てその果てに進む。〉 [日々の思い・独り言]

 右耳の後ろだけでなく、ちょうど右襟足にあたる首の箇所にまで腫れができて、痛みに耐えかねている。知己がそれを見て、はっきりと視認できる程の大きさだと教えてくれた。写真を撮ってもらったが、これまで見たことのないような大きさの腫れだった。
 痛みは右耳の後ろの腫れからズキンズキンと絶えることなく続いているが、首の後ろの腫れからも鈍痛がときおり起こっているように感じられる。そうして昨日(12月26日)の診察のあとで生じた左襟足にあたる首の箇所も、右側ほどではないが細長く腫れあがっている。
 帰りはなかなかタクシーが摑まえられず、配車を頼んでもすべて出払ってしまっていた。店を出てから40分くらい経ったあと、桜木町でようやくタクシーを停められたときは、既に右脇腹は痛みと突っ張りで悲鳴をあげていた。
 帰宅してすぐお腹に食べ物を入れて空腹を満たしたあと、脳梗塞の経過観察で処方された薬と、白血病の薬を服んだ。そうして、クリスマスの日に処方された痛み止めを服んだ。薬漬けである。が、わたくしはまだマシな方だ。これ以上の数、種類を服んで闘病している人は、この世にたくさんいる。弱音をあげるわけにはいかない。まだわたくしにはやるべきこと、やらなくてはいけないこと、やっておきたいこと、やりたいことがたくさんある。生きなくてはならぬ、
 上記のような次第で第3750日目の文章を、いつもより何時間か遅く公にすることになってしまった。12月27日の夕刻、病院の帰りに、体を休めるため寄った喫茶店で書いた『バークレーの新約聖書案内』についての文章は、12月29日午前2時にお披露目させていただくことにする。
 わたくしには敵が多い。わたくしの病気を陰で嘲笑う人がいることを知っている。自業自得と無知蒙昧の輩がいうのも聞こえてくる。その人たちの気配も感じる。だが、わたくしはかれらの嘲笑罵詈を退けて、あがいて、しぶとく、健康を取り戻して、最期の最期まで意識明晰、臓器も四肢も健常の状態で、長寿を全うしてやる。授かった希望のために。◆

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第3749日目 〈山本芳久『キリスト教の核心をよむ』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 きょうばかりは暗い話はなるべくしたくないので、読んだ本のことを話そう。

 山本芳久『キリスト教の核心をよむ』(NHK出版 2021/10)を読み終わった。ずっと鈍く続く痛みをわずかの間でも忘れられたら……という思いから手にした一冊だったが、ゆっくり読み進めるうちジワジワと、旅する人々を束ねる同伴者イエスの優しさが染みこんできて、すこぶる感銘深い読書となったことをまずは報告したい。
 なにより心に残ったのは最後の第四章、「橋をつくる──キリスト教と現代」だった。教皇フランシスコとヘンリ・ナウエンの著書を紹介しながら、〈周縁の神学〉を踏み台にして自分と他者の間に「橋をつくる」、架橋することが、世界が断裂されているこんにちにこそ必要と説く。
 キモとなるのは、ナウエンの代表的著作『傷ついた癒し人』にある、自らの傷を(他人への)癒やしの源泉とする、という箇所。この発想は、「『十字架で苦しむイエス』というキリスト教の根本的なイメージを、現代的な文脈で活かし直したものと言うことができ」(P116)る、と山本は解説する。
 自分自身がわが身わが心にこうむった傷──悲しみや苦しみ、無理解、孤独や病気などを、同じように傷ついて、癒やしを求めずとも求めている人に用いる。ここでいう癒やしは「ヒーリング」の枠を飛びこえて、共感すること、寄り添うこと、手を重ねること、話に耳を傾けること、そうした行為をも含むと捉えてよい。
 これが、ひいては「同伴者イエス」のイメージへつながってゆくが、非キリスト者にもこれをイメージしやすくすれば、隣人愛、となるか。自分と相手の間に「橋をつくる」ことにもつながるそれが決して、施しをする、なんていう上から目線の行為を意味しないことは、自分の傷を他人への癒やしの源泉とする、というそもそもの出発点が明らかにしている。
 著者の言を借りれば、曰く、──

 自分が苦しみ、傷つくとき、それを単に偶然起こったことと受けとめるのではなく、私たちみなが共有している人間の条件の深みから生じてくるものと受けとめる。人間とはそもそも傷つき苦しみ存在なのだと気づくことが重要なのです。
 人間とは苦しむ存在だということに目を開かせ、また傷つき苦しむ人への共感の態度を持つことで、ほかの人の癒やしにもつながるような在り方が備わってくる。それは、安易な仕方で苦しみを取り去るということではなく、傷や苦しみを共に負いながら共に歩んでいけるようになる、ということです。これはまさに、これまで語ってきた「同伴者イエス」の在り方につながります。
(P117)

──と。

 山本の単著を読むのは、たぶんこれが初めてのこと。奥付に拠ればトマス・アクィナスに関する著作が中心らしいが、『キリスト教の核心をよむ』は深みと広がりを兼ね備えた、こんにちに於ける最良のキリスト教入門書のひとつといえる。宗教に固定観念(偏見──それはいちばん危険な思考である!!)を持った偏狭な非キリスト者にこそお奨めしたい。むろんそこに留まらず、江湖に推奨したいのである。
 わたくしは本書を取っ掛かりにして、巻末のブックガイドを参考にしながら、教皇やアウグスティヌス、或いは他の著者たちの本を読んでみようと考えている。◆






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第3748日目 〈病気と闘いながら、今年よりは良い来年を迎えたい。〉 [日々の思い・独り言]

 体調不良に伴って読書が遅れていた杉原泰雄『憲法読本 第4版』について、年内の再読終了を目論んでいたがそれはどうやら水泡と帰すことになりそうだ。というのも二週間程前から呻き続けて罵詈を叫んでいた腰と背中、両脇腹、左股間(鼠径部)の断続的かつ移動する痛み、そうして右耳後ろの腫れと痛みの原因、今後の治療方法等がわかってきたからだ。
 クリスマスの昼、救急車を呼んで運ばれたかかりつけ病院の緊急医療室での検査に拠れば、すべてはリンパの腫れによるものの可能性が高いという。
 最近はCT撮影をしていなかったので「いつから」とは判然としないが、前回撮影した2022年秋と、今年夏の脳梗塞を発症した際に撮影された(別病院での)写真を並べてみるとリンパがいまのように拡大して神経を圧迫、痛みや腫れをもたらしたのはここ三、四ヶ月のことである様子。これとて明日の診察を経ないと正確な原因などわかりかねる部分が大きいのだけれど、リンパが拡大しているのは事実。原因が実はまったく違うものでした、なんて結果にはならないだろう。
 実際にリンパが原因だったとして、もうこんな時期だから化学療法を行うのは年明けからになる由。当面はこれまでもらっていたよりも強い薬と、今日もらった痛み止めの薬で対処してゆくしかなさそう。
 けれど、未確定ながら原因と目されるものが判明しただけでもよかった。つくづくその点は感謝している。救急車を呼ぶのが前回──二週間前──であれば、クリスマスの今日あたりに退院できていたかもしれない。誰も、なにもいわなかったが、今日救急車を呼んで運びこまれたのは「時、既に遅し」なのかもしれない。血液内科の先生が既に退勤されていたので詳細なお話が聞けなかったのは残念である。
 痛み止めの点滴のお陰で、運ばれる前よりは痛みも治まっている。昨夜から今日昼にかけてのように非道くはない、という意味だ。それでもこの状態が続いていることが、とても嬉しい。
 とまれ、原因と考えられることは判明した。明日が本来の診察日であったこともよかった。救急隊の方々の対応、病院の緊急医療室の方々の対応も嬉しかった。わたくしは幸せ者だ。すべては導きである。人に恵まれること、これがいちばんの宝である。この病院との縁を結んでくれた母に感謝している。
 斯様な次第で、今年はまだ一週間あるけれど『憲法読本 第4版』読了を無理して目指すのは、止めることにした。負担をかけないこと、無理をしないこと、規則正しい生活をすること。自分が抱えている病気を沈静化させるためなら、読書が二義的になるのは仕方ないと思う。命あっての、健康あっての趣味である。
 それにしても令和5/2023年はいろいろ散々な一年であったな……。来年は良い年(Better Year)でありますように。◆

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第3747日目 〈徴税人、マタイのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 福音書に登場する徴税人マタイ、レビはユダヤ人だった。エルサレムの一角で仕事をしていた。かれらは同胞から忌み嫌われる存在だった。にもかかわらず、イエスはかれらを召して弟子とした。
 エルサレムを含むユダヤ、その北にあるサマリヤ、イエスの故郷ナザレを服むガリラヤ。その周辺地域。そこは当時ローマ帝国の属州だった。小規模の抵抗運動、大きな反乱はあったと雖もそのたび、ローマ軍によって鎮圧された。
 人々は内心でローマを憎んだ。よい感情は持っていなかった。矛先はローマの代理人のようになって働く同胞へも向けられた。マタイ、レビがユダヤ人でありながら忌まれたのは、徴税人というのが、ユダヤ人がローマへ納める税金の取り立て役だったからだ。
 「マタイによる福音書」に曰く、「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『(中略)わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マタ9:10-13)と。
 検めてみる。全員の出自や生業があきらかにされているわけではないが、十二使徒のうちペトロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟はガリラヤ湖の漁師だった(マタ4:18-22)。十二人の使徒はマタ10:2-4で判明するが、福音書に出自や生業があかされているのは、ガリラヤの漁師だった四人と徴税人のマタイだけである。シモンは熱心党に属したというが、いずれにせよ出自や生業はさげすまされたり、ふだん省みられることのないようなものであったろう。
 社会的にはさして重んじられていない、何事かがないと存在を認知されないような人々、或いは罪人と一括りにされるような人々とイエスは積極的に関わりを持ち、時に弟子として召した。
 山上の説教(垂訓)に曰く、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」(マタ4:3-4)と。
 そうした人々とは即ち、特別な身分や職業とは無縁な、イエスが進んで交わりを持とうとした人々だ。そんな人々にとって、「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11:28)と手を差し伸べ胸を開いてくれるイエスの存在はどれだけ心強く、安堵できるものであったろうか。ゆえに、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という台詞はいよいよ具体性を増してくる。
 招かれたユダヤ人社会内部の敵、裏切り者と見られ上前をはねるコスい奴と陰口を囁かれる徴税人、マタイは十二使徒の一人としてイエスと行動を共にし、磔刑後は他と同じく宣教に努めて、その活動地域は、ペルシア、パルティア、エジプトなど、ユダヤの南側だったと伝えられる。近代になるまでは福音書記者マタイと同一視された。
 今日12月25日は、マタイを召したナザレのイエスが生まれたと信じられている日である。読者諸兄よ、諸人よ。友人よ、家族よ。メリー・クリスマス。世界は苦しいだけのものではない。◆

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第3746日目 〈それって本当に幸せなの?〉 [日々の思い・独り言]

 酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
(ロマ13:13-14)


 マニ教徒であったアウグスティヌスは、たまたま読んだ「ローマの信徒への手紙」の上の一節によって安心の光ともいうべきものが心のなかに降り注いできて、それまで自分のなかにあった迷いや疑いというものが消えていったのを、感じたそうであります。
 では、自分はどうか。聖書読書に用いた新共同訳にあたり、ブログ原稿を検めると、こんな風に言葉すくなに述べている。曰く、「ともすれば、意思が一時の情念と欲望に敗北を喫することしばしばであるわたくしにとって、この言葉は強烈です。そうして、鮮烈です」(第2090日目)と。
 酒宴酩酊からは病を患ったことでなかば強制的に縁切りできたが、まだまだ現世の欲望情欲と縁を切ること能わず。アウグスティヌスのように、心のなかが安心に満たされて疑いや迷いの軛から解放される〈その時〉は、わたくしにはまだしばらく来そうもありません。
 そのような境地から解放されたら……本当に幸せなのかな? よくわからないや。◆

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第3745日目 〈ハズレの年?〉 [日々の思い・独り言]

 『古書ミステリー倶楽部』全三巻をそれなりに楽しく読んで以後も何冊かの小説を読んだけれど、感想文を書くのもTwitterに読了ツイートを流すのもヤメにする程ハズレを引き続けた不運を嘆きたい。
 以後に読み終えた小説四冊の著者とタイトルを列記する非道はしないが、うち二人がベテラン作家で過去には好んで読んだけれど此度の三冊は「徒労」としか言い様のない、スランプなのか耄碌なのか判断しかねる、呆れ果てたる愚作と断を下すより仕方のない代物だった。なかには「良いな」「好きだな」と目次に丸をつけた短編もあったが、それは読後間もない感情であって維持継続される気持ではない。
 唯一読んでよかった、と感じるのは、芥川龍之介の短編をモティーフにした短編を二人のベテラン作家が書いていて、その短編が架蔵する芥川の作品集には入っていないので偶々売りに出ていた文庫版全集揃を購い、「カルメン」「沼地」を読むことができた点のみである。
 残りの一人、一冊は、そろそろ中堅の域に差しかかろうとしている人の、横濱を舞台にした<日常の謎>系の短編集なんだけれど、これがもう箸にも棒にも引っ掛からぬたわけた作品でわずかも琴線に触れるところなく、長所を無理矢理でも見附けることすらできず、正直なところ読み通すにはかなりの体力と精神力を消耗した……もう二度とこの人の小説を手にすることはあるまいな。
 結局、今年一年で読んだ小説のうち、「2023年に読んでよかった本 ベスト……」に入るのは橘外男『蒲団』のみと、現時点ではなりそうである。
 今年ももう残すところ十日を切った。待機中の小説からなにを選ぶかすっかり弱気になっているわたくしだが、鈴木悦夫『幸せな家族』、山田風太郎『厨子家の悪霊』、緑川聖司『晴れた日は図書館へいこう 物語は終わらない』、劉慈欣『三体』は、どれも前期待を裏切らぬものと信じて、過去の四冊についてはもう忘れることにしよう。
 忘れるといって舌の根も乾かぬうちにこんなことをいうのもなんだけれど、最後に生田耕作の著書から、わたくしの気持ちを代弁するような一節を。曰く、──

 最初の数十ページで、私はいさぎよく書物を床に叩きつけるべきであった。批判の最高の形式は沈黙であり、一冊の書物にたいする、一人の著者にたいする最高の批判形式は「読書の中絶」にあるからだ。書評の義務にせまられ、自らに苦役を課する思いで、読みつづけ、上・下二巻千ページ近い大作に目をとおしたあと、いま私は、自ら招いた優柔不断の代償として、不愉快な重労働のあとにつきまとう後悔と、いいようのない腹立たしさに向かい合わされている。私に残されたものは、首尾一貫した書評ではなく、この憤ろしさの原因究明と、その報告があるだけである。(「虚妄の『戦後』」 『生田耕作評論集成Ⅳ 滅びの文学』P273 奢灞都館 1996/01)

──と。ご想像あれ。◆

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第3744日目 〈その場のノリで「石を投げる」側に立たないようにするには。〉 [日々の思い・独り言]

 「ヨハネによる福音書」にある挿話です。不義密通の罪を犯した女性に投石しようとしている群衆にイエスが曰く、あなた方のうちで罪を犯したことのない者から(この女性に)石を投げよ、と(ヨハ8:7)。誰も、誰ひとりとして石を投げられなかった。群衆は散り散りになって、イエスとその女性だけが残された。彼女に、誰もあなたを罪に定めなかった、わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい、そうして二度と罪を犯してはならない、といった(ヨハ8:10-11)。
 とても良い話だ。不倫は赦されない不貞行為でありますが、イエスはそれについて頭ごなしに説教したり、律法を持ち出して群衆と同じように裁こうとはしなかった。むしろ群衆を婉曲な物言いで諫めることでその場の危機を一旦やり過ごし、群衆一人ひとりに己の罪を思い起こさせた。人間誰しも規範に背く行為をしでかしている。それが大きいものであれ小さいものであれ、律法に抵触しようとしなかろうと──。古今東西を通して変わりようのない人間の本質が、ここでは象徴的に描かれていると感じます。
 イエスが最後、女性に投げかける台詞も良い。判決は下された、行って、ゆめ不義を働くことなかれ。命を救い、赦すばかりでなく、今後の行動指針まで与えている。こんにちの裁判の、結審後に裁判長が被告へあたえる言葉を想起します。或いは、刑期を終えて出所する人へ刑務官らがかける言葉を。ステレオ・タイプの域を出ぬ想像でありますが、イエスの姿、言葉がそこにかぶってわたくしのなかにあるのは否めぬ事実であります。
 もしも自分が、不義密通でなくてもなにかしらの罪を犯した人と、それを取り囲んで非難する集団のいる場に出喰わしたら、……時代も国も法も違うのを盾にして(言い訳にして)、群衆にまざって深く考えてもいない正義を声高に叫び、イエスとは真逆の立場に自分を置いているかもしれない。
 そうならないための第一歩──たやすく群集心理に呑みこまれて思考を停止させたりしないための第一歩はやはり、いやちょっと待てよ、そんなに簡単に結論を出してよいのか、一旦冷静になって両方の側からこの問題を検討する必要があるんじゃないか、結論や立場を表明するのはそれからでも遅くはないだろう、っていう〈余裕〉を持つことなんではあるまいか。思考の停止と想像力の欠落は同義だ。想像力を欠いた人、考えるのをやめた人は、どんなに非道いことでも、非道いと思うことなしに平然とやってのける。それこそがいちばんの罪なのでは?
 「ヨハネ伝」のこの挿話を読んでいると、人間一人ひとりが罪を犯しながら生きていることや、長いものに巻かれて自分の考えや意思を置き去りにして行動することの危うさを思わずにはいられないのです。
 ──今年はあと二、三回、聖書に材を取ったエッセイを、クリスマスを含めてお披露目する予定でいます。◆

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第3743日目 〈そんなに意外かなぁ。〉 [日々の思い・独り言]

 なにが意外かって、Kindleを持っていないことです。発売当初から「Kindle気になるんだ」「Kindle買おうかな」「Kindle貸して、買うときの参考にしたいから」といい続けていたせいかもしれません。でも、まだ持っていないのです。だって、買おうと決意するとほぼ9割の確率で新機種が出るんだもん。決めようにも決められませんや。
 けれどね、もう諦めたんです。Kindleは買わない。少なくとも当分の間は。諦めた、というよりは先延ばしにすることに踏ん切りがついた、というた方がよい。
 どうしてか? 以前iPadにどうした理由でかDLしたKindleアプリがあるのを見附けたから。それを使えるようにして済ませればいいじゃん、って気が付いたから。どの道、電子書籍に鞍替えするつもりも依存するつもりもない。だったら手持ちのタブレットにアプリが入っていれば、それでじゅうぶん。
 勇み足で買わなくてよかった、と胸を撫でおろすのは、ゆめ負け惜しみの類ではない。断じて。ただ一人の作家の、ただ一冊の本を読めればいい。それ以外は付属の恩恵でしかない。紙の本で所有していて出先でも使う/読むものは、都度DLしてKindleアプリで読めるようにするが、それで良いんじゃないか。鞍替えするならば、依存するくらいならば、もう疾うの昔にKindle、買ってますよね。
 とはいえ、今回の腰と背中の一件で、上の代替策を早々に引退させて現物購入の早期検討に踏み切ったことは報告しておかねばならぬか。◆

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第3742日目 〈「エステル記」〈前夜〉、ようやく書き了んぬ。〉 [日々の思い・独り言]

 二年程前から手を着けて、昨年の11月に一旦書きあげていた「エステル記」〈前夜〉。昨日久しぶりに読み直しました。聖書や参考文献を引っ張り出して机の上に山を築いて一部を直し、「これで良し」としました。つまり、書き終わった、のです。
 こんな長期にわたって手が掛かろうとは……書き始めた当初は、たぶん想像していなかった。次の「ヨブ記」が思いやられます。これと「詩篇」、「コヘレトの言葉(伝道者の書)」が終われば、〈前夜〉の新稿は概ね書き終わったも同然ですから楽になるのですが。
 「ヨブ記」については聖書の本文を、ここ一日、二日は体調も良いので合間合間に読んでいますが、中盤は流石にすらすら読めるには至らぬ。ヨブと三人の友人(後半で一人増える)の間で応酬される信仰の問題は、非キリスト者にはハードルが高い。並行して註解書を繙いていますが、これもなんだか雲を摑むようなところが多くて、小首を傾げることもしばしばです。
 今年中は幾らなんでも難しいけれど、今年度中には第一稿を書きあげていたい。たとえそれが不満だらけの代物でも、叩き台になる原稿があるとないとでは大違い。どれだけ瑕疵が目立とうと、未完成品よりは完成品の方がずっと価値がある。◆

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第3741日目 〈パウロの言葉はストア派、ビーダーマイヤーにもつながる。〉 [日々の思い・独り言]

 みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならないのです。(一テサ4:3-5)

 落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。(一テサ4:11-12)

 新約聖書から好きな文言を十個あげろ、といわれたらノミネート間違いなしの、パウロ書簡からの一節であります。こんなに地に足つけた言葉が聖書のなかにあるなんて、素敵です。
 ここに引いた「テサロニケの信徒への手紙 一」からの言葉は、ストア派の哲学や、ピーダーマイヤーの思潮にも通じると、わたくしは考えています。
 じっくり時間をかけてこの点を考察してみましょう。◆

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第3740日目 〈平井呈一・生田耕作の対談から。〉 [日々の思い・独り言]

 最初から引っかかるところがあったにもかかわらず、優先順位が低いせいで調べるのがどんどん後回しになり、あげく何十年も経ってしまっている、ということが、わたくしにはよくある。
 たとえば表題の件もその一つ。『牧神』創刊号(牧神社 1980/01)を初出とする生田耕作と平井呈一の対談「恐怖小説夜話」はその後、生田耕作名義では『黒い文学館』に載り『生田耕作評論集成Ⅲ 異端の群像』に再掲、平井呈一名義になると『幽霊島 平井呈一怪談翻訳集成』が初めてとなった。「第3082日目 〈生田耕作『黒い文学館』を読む。〉」(2021/07/08)でも触れたが、『幽霊島』に載るヴァージョンには、前述生田の著書からは削除された『牧神』編集部の前書きが復活した。本稿では『生田耕作評論集成Ⅲ 異端の群像』(奢灞都館 1993/08)を引用元とする。
 「恐怖小説夜話」の中盤、『牧神』編集部が、生田と歌人・塚本邦雄の対談で平井訳ホレス・ウォルポール『オトラント城綺譚』を「戯作」と呼ばれたことに触れて曰く、──

 編集部 以前生田先生と塚本邦雄さんが対談をされ、平井訳『おとらんと城綺譚』に触れ、戯作調ということを言われましたが……
 平井 あれを部分的に読んで「戯作」をどういう意味でいっているのかはっきりしなかったな。(中略)
 生田 塚本さんとしては、文章に江戸文学の素養が表れているという程度の意味で言われたのではないでしょうか。
 平井 その程度ならよいのです。(P301)

──と。
 『黒い文学館』で最初に読んだときから気になって仕方なかった。塚本邦雄は余り好きな歌人ではないが、歌詠みとしてはともかく評論家・歌論家としてはその意見、傾聴してきたから、さて、塚本はどんなニュアンスで、どんな流れで「戯作」なる語を口にしたのか。機会あれば掲載誌にあたって確認してみよう。……それから長い歳月が流れた。言い訳はしない。こちらにも様々あるのだ、とだけ発言しておく。
 この間に、生田・塚本対談の掲載誌『短歌』昭和47/1972年7月号は手に入れた。が、幾箱ものダンボール箱とその上に積みあげられた本の山に阻まれて、雑誌の発掘は早々に断念した。おまけに腰と背中の痛みがようやく治まってきたのだから、無理をしたくない(というよりも、する気がない)。為、確認用に書架から持ってきたのは追悼として編まれた『現代詩手帖特集版 塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏』である。これに、生田・塚本対談が再掲されているのだ。編集部の勇断に感謝。
 では「戯作」云々の典拠を辿ろう。対談のタイトルは、「わが心の芸術橋[ボン・デ・ザール] ダンディズムへの誘い」。以下、──

 生田 そういえば最近出た平井程一[ママ]さんの『オトラント城綺譚』[ママ]の訳、お読みになりましたですか。
 塚本 読みました。
 生田 どうお思いになりますか。私なんか、あの古語のうつし方にただただ舌をまくばかりで、深く味わうというところまでいきませんが、余裕綽々の離れわざに、あれよ、あれよと見とれるばかりで……。
 塚本 そのとおりですね。ゴシック・ロマンの訳をやるなら、漢詩あたりもやらなくちゃできないんじゃないかと思うような精神の緊張度を考える分けなんです。その意味で『オトラント城綺譚』なんかは名訳だと思います。
 生田 ただ、戯作調すぎるというようなところはありませんか。
 塚本 そうですね。でも、戯作調ってだいじなことだと思うんです。その要素があまりにも少なすぎる訳が多いじゃないかと思うくらいなんですがね。戯作調の日本語をマスターし、日本語をよく心得ている人の訳は、やはり味わいがちがいますね。(P314)

──と。
 どこかでわたくしがそう思いこんでいた部分もあるのだが、なんと、「戯作」と最初に口にしたのは生田先生であった! 「ただ、戯作調すぎるというようなところはありませんか」という問い掛けが果たして、同意を求める類のものであったか、あくまで懸念の域を超えぬものであったか、或いは自分の印象を確かめるための誘導であったか、今度は録音テープを何度も聞いてその口吻から推測するよりないが、もはや斯様な記録は残っておるまい。
 生田・平井対談に戻ると、平井が「部分的に」──都合よくトリミングされた対談を誰からもたらされて「読ん」だかは不明だ。可能性がいちばん高いのは思潮社に籍を置き、平井とは『オトラント城綺譚』のみならず退職後に設立した牧神社での『アーサー・マッケン作品集成』で、生田とはベックフォード『ヴァテック』補訳を通して接点があった菅原孝雄かと想像できるが、正しいところは不明である。
 ただ、塚本が平井の擬古文訳に江戸文学の素養を見出していたのは事実で、逆にそうした素養がなければゴシック・ロマンスの翻訳は難しいのではないか、と考えていた節さえ窺える。塚本は「戯作調の日本語」なんていうているが、古典時代の文学で用いられた言葉全般を使いこなせることが日本語で物を書き表す、表現する際の幅と深さをもたらすことにつながる──そんな信念を言葉の後ろに感じるのだが、如何であろうか。
 荒俣宏の回想にあったが、平井は『オトラント城綺譚』の手彩色版本を殊の外大事にしていたそうだ。平井にとってこの、ゴシック・ロマンスの嚆矢とされる歴史的名作は鍾愛して止まぬ一篇だったようで、それ故に、現代語訳と擬古文の二種類の翻訳を残した程だ。
 「建部綾足に範を取る擬古文」(菅原『本の透視図』P284 国書刊行会 2012/11)で訳された『オトラント城綺譚』は東雅夫編『ゴシック名訳集成 西洋伝奇物語』(学研M文庫 2004/06)で読むことが可能。ついでにいうと現代語訳は同編『ゴシック文学神髄』(ちくま文庫 2020/10)で読める。
 なお本稿では混乱を避けるために統一したが、平井の『オトラント城綺譚』は訳文のスタイルによってタイトル表記に相違がある。擬古文訳は『おとらんと城綺譚』、現代語訳が『オトラント城綺譚』となるので、古本屋さんで探すときはご注意の程を。◆

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第3739日目 〈ふたりの「放蕩息子」、親を想ふ。〉 [日々の思い・独り言]

 「ルカによる福音書」第15章に〈「放蕩息子」のたとえ〉と小見出しを持つエピソードがある(新共同訳)。
 生前の父に財産分与を請うた息子二人の弟の方は、それをすべて現金に換えて遠方の地で放蕩三昧に暮らした。が、その地が飢饉に見舞われると食うものに困り、紆余曲折あって故郷に還るのを決めた。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(ルカ15:18-19) 父は遠くからこちらへ歩いてくる息子の姿を認めると駆け寄り、上等の着物と食事を用意させると近隣の知己を呼び招いて祝宴を催した。
 これが〈「放蕩息子」のたとえ〉の前半である。このあと故郷に留まって家作に従事した兄が父を詰り、諫められる場面が続くがそれは省く。
 本ブログで聖書読書ノートを連載(……?)していた時分には気附いていなかったが、この父はたまたま畑に立っているとき遠くへ目をやると下の息子の姿を見附けたのではなく、いつもそこにいて息子が還ってくるのを待ち続けていたのだ。呻きながら読んでいた山本芳久『キリスト教の核心』(NHK出版 2021/10)を読んでいて、そうであったか、と首肯し、そうして過去の自分を思い出した。
 三十代の前半、〈家〉のことで色々ありどうにも飼い慣らせぬ衝動に家中を暗くし、ギスギスさせ、挙げ句に一度だけながら宵刻家を飛び出した。どこをどうほっつき歩いたか、不動産会社時代に販売した建売住宅のある地域を回ったのは覚えているが、それ以外はとんと……。途中で雨が降ってきた。気附けば自宅前の道を歩いている。神社で雨宿りでもしよう。そのときだ、インターホンからわたくしを呼ぶ母の声がしたのは。
 謝って許してもらい、風呂に入り、あとで聞いたところでは、ずっと窓やインターホン越しに前の道を見続け、息子が通るのを待っていたそうだ。これをきっかけに荒ぶる心を鎮める術を身につけ、親孝行の道に入ってゆくのだが、それは別のお話。恥ずかしくて、流石に文字にできない。
 わたくしが「ルカ伝」にあるこの放蕩息子のエピソードを読んで親しみを感じたのは、いまにして思えば、この父親の姿が、母にかぶるところが大きかったせいだろう。
 山本芳久は件の本のなかで、放蕩息子を待ち続けて帰りを迎えた父親について、こう述べる。曰く、──

 この父親は単なる父ではなく、たとえ話として「父なる神」のことを語っているのです。自分に立ち戻ることは、父に立ち戻ること。そしてそれは神に立ち戻ることにつながっている。
 神になぞらえられる父親は息子に走り寄り、明確な許しの姿勢を示しています。それでこの息子は、自分が真に安住できる場所は父親のもとにあったのだということに気づきます。(P58-9)

──と。
 「ルカ伝」の時代は父性社会というのに加えてユダヤ教の神が男性的であることから、父親を神に準えた斯様なイエスの喩え話になりますが、宗教に関係なく男の子全般にとってはむしろ母親に準える方がよりわかりやすかろう。
 わたくしは父を事故で亡くしているから尚更かもしれないけれど、父親とは永遠に追いかける背中であり生き方の模範である。一方で母親とは、安住できる場所は勿論自宅だが、その場所を守り、なにをしでかしても帰りを迎えてくれる存在だった。こちらもそれなりに放蕩息子だったから、両親にどれだけ心配をかけたか怒らせたか悲しませたか、想像するに余りあるけれど、母には甘えられる分余計な心的負担をかけてしまった。すぐにそれを自覚し、反省して、……できる範囲で、できる限りいっぱいに孝行したと思うのだけれど、母も身罷ってしまった現在はそれを確かめる方法がない。
 女性を港に喩えたりするのも、放蕩息子のエピソードに於ける息子の帰りを待ちわびてずっと遠方へ目をこらしている父親と同じような理由からかもしれない。それを持つ人は、それだけで幸せだ。◆






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第3738日目 〈今年程「趣味:読書(ガチ)」で良かったと思う年も、そうなかなか無いだろう。〉 [日々の思い・独り言]

 腰の痛みに耐えかねて臥せったり朦朧としていたら、曜日の感覚がすっかり失せているのです。
……はて、今日はいったい何曜日であったろうか? 状況が状況ゆえ新聞を読むのも億劫で、テレビの報道番組とも御無沙汰していると、そんな風になる。
 え、スマホでネットニュース見ろ、ですって。見ていたさ、勿論。が、見ることと今日が何曜日か、何日なのか、は決して等号で結びつきはしない。テレビの報道番組でそれが可能なのは、キャスターが「何月何日何曜日……」とちゃんと伝えてくれるからだ──お察しと思うがみくらさんさんか、民放の報道番組は殆ど視聴しないのである(同じ地上波でも朝や昼間の情報番組[……嘆かわしい顔触れである]をよもや報道番組と曰う阿呆は居るまい)。
 そんな不毛で誰の得にもならないお話はさておき。
 曜日の感覚が狂うなんて時代劇の楽隠居じゃあるまいし、ね。なんだか世間の流れに取り残された感がいっぱいで、ああこれを〝寂寥〟っていうのかなぁ、定家卿が蟄居謹慎に処されたときの心境ってこんなだったのかなぁ、と徒然思いを馳せたことでありますよ。いや、勿論、わが身を準えるも烏滸がましいことであるのは承知している。承知しているが……若いときに読み耽った古典のそんな場面記述があれこれ脳裏を過ぎってゆくのです。これも「暇」の為せる技だろうか。
 ええ、この数日は暇でした。暇を余儀なくされる、というのも変な表現だが、横になっていても起きて立っていても、坐っていても、腰や背中に耐え難い痛みが生じてなにもできなかったのだから、もうこれを「暇」と呼ばずしてなんと呼ぶ。
 とはいえ、菜にもせず、ただ痛みをこらえて終日呆と過ごすのはわたくしの望むところでない。為、読書に励んだ。否、痛みを忘れるため、痛みをわずかなりとも和らげるため、そこから少しでも意識を逸らすため、読書に励んだ、というのが正しい。とはいえ、流石に憲法の本は読めぬ。シャープペン片手に集中するだけの根気がないのだ。
 この数日の読書を省みて納得するところあるのは、然程脳味噌を回転させずともよさそうな本ばかり読んでいたことだ。著者には失礼な物言いと承知しながら敢えて斯く述べるのは、或る程度理解しているもしくは知るところ多い分野については初読の本と雖も、痛みを一時的に忘れるための読書だとしても比較的すんなりと頭に入ってくる部分がかなりを占めることがあり、一方でコミックスというのは斯様な状況下で最もその効能を発揮する出版物と考えるからだ。ちなみに此度の読書においてそれぞれ代表をあげれば、前者では山本芳久・若松英輔『キリスト教講義』と山本芳久『キリスト教の核心』となり、後者については矢吹健太朗・漫画/長谷見沙貴・脚本『To LOVEる -とらぶる-』(全18巻のうち第1-12巻)と小畑健・作画/大場つぐみ・原作『バクマン。』(全20巻のうち第1-9巻)となる。
 いろいろツッコミどころのある読書ではあるが、なに、これはこれで良くバランスが取れているではないか。
 想定外の体調不良により蟄居を強いられた師走。それにしても今年は陥入爪の発症と悪化・手術、脳梗塞の発症と入院、白血病の定期検診、聴力の低下に伴う通院と経過観察、そうして今回の腰と背中の激痛と自宅療養、とまぁ色々と健康面でトラブルが続いた一年であった。その傍らにいつも「趣味:読書(ガチ)」があった幸福を噛みしめている。◆

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第3737日目 〈ああ、やっぱりだめだ!〉 [日々の思い・独り言]

 なんとか午前2時の更新に間に合わせようと試みたのですが、頭がぼんやりしてまるで集中できないため、また腰の痛みも強くなって坐っているのが苦痛なこともあり、今日はお休みさせていただきます。
 なかなか体調が元に戻らないことが、くやしくてなりません。ひとりとはつらいものです。
 明日からはふたたび毎日書けるようにしたい!!!◆

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