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第2749日目 〈ドストエフスキー『死の家の記録』を読みました。【再読】〉 [日々の思い・独り言]

 TwitterのTLへ流れてきたと或るツイートに触発されて、今日の原稿を書く。『地下室の手記』がはじめてのドストエフスキーであった、という、誰かがリツイートした誰かのツイートを読んで、そんなことを企んだ。
 ちょうどド氏再読・文庫化作品全作読破を目的とした<第二次ドストエフスキー読書マラソン>に来春までには取り掛かれるかな、と目算が付き、これまでに読んだドストエフスキーを引っ張り出していた折ゆえ、良いタイミングだったのである。
 読書記録或いは本ブログの過去記事を検めるまでもない。わたくしがはじめて自覚して読んだドストエフスキーは『死の家の記録』、10年前;2009年11月のこと。学生時代、ロシア文学のゼミで読まされた『白夜』とグリーン版世界文学全集に収録の各作、映画を観る前に体力に任せて読み切った『悪霊』は除かせていただいている。
 正直なところ、どうしてその時期にドストエフスキーを読もうとしたのか、覚えていない。長く蓄積されてきた渇望が臨界に達したのだろう。古書店や新刊書店で新潮文庫のドストエフスキーをちまちまと買い集め、そうして読書の勇断(という程ではないけれど)を下したのだ……それは翌夏、あまりの暑さに集中できず、では太宰でも読むか、と箸休めしたが運の尽き。そのまま本道に戻ることは終ぞなく、今日へ至っている──と、記憶するが、果たして?
 『死の家の記録』、それはドストエフスキーがシベリア流刑から帰って最初に著した、長編ルポルタージュだ。記録者にして語り手ゴリャンチコフの体験が自分の過去に重なり、ついページを繰る手が鈍って考えこんでしまうところは、以前とまるで変わるところがない。半日費やして読み返してみてその迫力と壮絶さに圧倒されてしまうたところも、また。人間が如何に環境によって非人間的な姿に変貌してしまうか、希望や感情を保ち続けることが難しいか、を痛烈に思い知らされるのだ。
 「わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまで暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は、ついには、甘美のもっとも異常な現象をも受容れるようになる。暴虐者の内部の個人と社会人は永久に亡び去り、人間の尊厳への復帰と、懺悔による贖罪と復活は、ほとんど不可能となる。加えて、このような暴虐の例と、それが可能だという考えは社会全体にも伝染的な作用をする。このような権力は誘惑的である。このような現象を平気で見ている社会は、すでにその土台が感染しているのである。」(工藤精一郎・訳 新潮文庫 P299-300)
 ……嗚呼、斯程雄弁に人間の変貌について語り得た文章が、他にどれだけあろうか!?
 が、語り手ゴリャンチコフ即ち著者ドストエフスキーはそのような劣悪な環境のなかで、自由になる日を夢に見続け、その日が訪れることへの希望を失うことなく、これまでの人生を厳しく反省し出獄後に営むであろう理想とする生活を思い描きその遂行を信じて、シベリアでの4年間を生き抜くのだ。キェルケゴールではないけれど、絶望こそが死に至る病なのである。その死とは肉体の死のみならず魂と人間性の死をも指す。……とすれば、それを未然に防ぐための良薬は希望のはずではないか。
 この体験なくしてわれらが知り親しむドストエフスキーの世界は生まれなかっただろう……人間心理を饒舌なまでに筆を費やしながら抉りに抉って神話のレヴェルまで高められた後期の作品群は、シベリア流刑と『死の家の記録』の執筆なくしてあり得るものではなかったのだから。
 人間心理を徹底的に、容赦なく抉ってゆくそのスタイルは、次に書かれた中編『地下室の手記』(『地下生活者の手記』)にて切り詰められた形で、そうして更に切迫した調子で表現されて、やがて『罪と罰』を嚆矢とするドストエフスキーの5大長編へ発展、結実してゆくことになる。
 そうした意味でも本書『死の家の記録』は、ドストエフスキーの全著作中最重要にして必読複読の要成す1冊である。◆

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第2748日目 〈太宰治「彼は昔の彼ならず」を読みました。──引用を主としたる感想。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしはこの語り手を、太宰文学の数ある語り手、登場人物のうちで、いちばん救い難く、いちばんのうつけ者、お目出度いまでに左巻き、そうして超弩級の馬鹿者であると思う。「彼は昔の彼ならず」の語り手のことだ。これは『晩年』に収まる。
 東京郊外に親譲りの遺産で暮らす無職の男が語り手。自宅とは別に譲り受けた家を貸して、その家賃でのんべんだらりと毎日を暮らす。そこへ木下青扇という「自由天才流書道教授」を名乗る男が店子として入るが、敷金は勿論一向に家賃さえ支払う様子がない。痺れを切らした語り手だが、生来そんなことは嫌いなのだ、と嘯き嘯き、けっきょく家賃を一銭も払ってもらえないまま、今日も離れた場所から青扇が散歩に出かける光景を眺めている。──というが粗筋。
 さて、感想。容赦なく行く。こちらはアパートのオーナーだ。不動産投資をしている。管理会社や地場の不動産屋さんとはちゃんと連絡を取り合い、家賃収支を点検し、すは鎌倉となれば必要な行動を起こす。ゆえ、わたくしの感想は専ら語り手に寄ることを、ご理解いただきたい。では、──
 まずこの輩、そもそも道楽とはいえ店子に腰が引けてしまうようならば、大家さんなんてやらねばいいのである。家賃で生活を立てているのなら、家賃の督促にひるんではならぬ。厭な思いを抱くのは、すべての大家、オーナーなら当然だ。こちとら慈善事業をしているのではない。店子との交渉を面倒がり、賃貸借書類の作成すら「いやなのだ」と洩らすなら、きみよ、さっさと廃業して、働け。賃貸に出している家も、処分してしまうことだ。
 「家の貸借に関する様様の証書も何ひとつ取りかわさず、敷金のことも勿論そのままになっていた。しかし僕は、ほかの家主みたいに、証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいやなたちだし、また敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらいで、青扇も言ったように貯金のようなものであるから、それは、まあ、どうでもよかった。けれども屋賃をいれてくれないのには、弱ったのである。僕はそれでも五月までは知らぬふりをしてすごしてやった。それは僕の無頓着と寛大から来ているという工合いに説明したいところであるが、ほんとうを言えば、僕には青扇がこわかったのである。」(新潮文庫 P28-281)
 ……なんなんだ、このアホンダラは。果たすべき義務を果たそうとせぬ者が、なにをいうておるか。一見すると<武士は食わねど高楊枝>な生活であるが、ただの不精者でしかない。なにが、「僕の無頓着と寛大」だ、それによって青扇が暮らせているか。呆れてしまう。
 「証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいや」だと? もうこの時点で家主てふ生業の廃業勧告をしたいぐらいだ。
 「敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらい」? そうだな、あんたのことだからあっという間に損失を被って、債鬼に追われる身分になるであろうな。が、それも自業自得じゃ。呵々。
 「みちみち僕は思案した。あの屋賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活に窮するというわけではない。たかだか小使銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。」(新潮文庫 P291)
 ……聖人君子か、どれだけの富貴者か。お金にまるで困らぬご身分の者の台詞だ、「不自由をしのんでやろう」とは。もうかれはこのお高い志持ったまま、路頭に迷われるが宜しいのでは。路上生活者となってもさぞ君子の如き心で生を全うされることであろう。暴君ディオニスのようにご乱心、他人を信じること出来ぬ御仁になることはあるまい。精々お達者で。
 「『あなたも子供ではないのだから、莫迦なことはよい加減によさないか。僕だって、この家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら保険料やら修繕費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ傲慢の精神か、それとも乞食の根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし給え。』言い捨てて立ちあがった。」(新潮文庫 P302)
 ……やるではないか。見直したよ。むろん、言葉ばかりで家賃の取り立てはできぬのだが、こうして啖呵を切れるだけ劇的なる進歩だ。奇跡的出来事である。が、それだけの話だ。
 「僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをしているとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由に襲われた。しかもいまになってみると、それはなんの面白さもない一層息ぐるしい結果にいたったようである。」(新潮文庫 P310)
 ……いや、だからそれを自業自得というんでしょ。怠惰と鈍重と無能が招いた結果じゃ。要するにこの男、語り手の此奴、ポンコツなのである。
 青扇の「働けたらねえ」「金があればねえ」という言葉に同情し、ときにしなびた姿に同情し、けっきょく家賃を支払ってもらうことのできないまま、かというて青扇が出てゆかず居坐ったまま暮らすのを指くわえて眺めるしかできない語り手を、侮蔑と嘲笑以外の目で眺めることが、わたくしには出来ない。これは唯のロクデナシである。語り手よ、いまの時代に生まれていなくてよかったな。そう本心から思うのである。これは罵倒でも揶揄でもなんでもない。衷心から出た正直な安堵だ。
 「彼は昔の彼ならず」にちっとも滑稽とか戯画とかを感じ取ることが出来ない。新潮文庫に解説を寄せる奥野健男も相当お目出度いな、この短編に関しては。
 いろいろ書き散らした。これまで何度も「彼は昔の彼ならず」を読み、そのたび他作品同様の感想を、と心掛けるのだが、都度失敗する。おそらくこの世に存在する(した)なかでわたくし程、本作に感想を述べて平板浅薄な者があろうか? さりながらどうしても……いや、やめておこう。◆

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第2747日目 〈発見、発掘、『エリア随筆抄』。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日お披露目したチャールズ・ラム『エリア随筆抄』、みすず書房版にまつわる騒動の件。──実は予約投稿したその直後、読もうと思うて引っ張り出した永井荷風『腕くらべ』復刻版の横にちゃんとありました。すこし引っこんだところで小さくなって。
 いやぁ、愕然としましたよ。俺はいったいどこを探していたのか、とね。そこはずっと探していた場所、そのすぐそばであった。見落としていたのである。
 思いこんでしまったのだね。ダンボール箱のなかにあるはず。出していたとしても、同じ箱にしまっていた他の本と一緒にあるはず。そんな盲信に目を曇らされたのだ。……まぁ、処分した本のうちになかっただけで良しとしましょう。
 しかしながら、とわたくしはいわざるを得ない。この『エリア随筆抄』を見附けたからとて、先に予告した家族についてのエッセイにすぐ取り掛かれるわけではない、ということを。それというのも他に書きたい題材(という程立派ではないか)が山程あるからだ。
 鉄は熱いうちに打て。蓋し至言である。いま件の文章執筆のプライオリティは下がり、忘却の淵へ落ちるわずか手前でどうにか踏み留まっている状態。が、それに手を差し伸べることはできない。ゆっくりと仕込みを行うが精々だ。
 即座にお披露目できるわけではないけれど、そう、書きたいことはたくさんある、本ブログの記事となるべき文章は幾らでも書ける。太宰治やドストエフスキーの感想、日常の些事、聖書のこと。大過なく日々を過ごすことのできる感謝を述べ、ルサンチマンを吐きまくり、諦念の片影さす夢想の文章。幾らでも、書くことができる。それらが声を立てて、早く自分のことを書いてくれ、と騒いでいる──件の文章を書くのが後回しになる、というのは、そういう次第なのだ。
 弁解にもならぬ文章を綴った。読者諸兄よ、許してくれ。◆

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第2746日目 〈おーい、『エリア随筆抄』はどこへ行った?〉 [日々の思い・独り言]

 つい先日、部屋を掃除中にダンボール箱のなかで見掛けたチャールズ・ラム『エリア随筆』(みすず書房)を探すも、どこにもない。「傘がない」ならぬ「『エリア』がない」という(※)。困った事態に陥っている。
 もう1冊、別の『エリア随筆』があるから、当面はそれで事足りるのだけれど、弱ったなぁ。その平井正穗訳の八潮出版社版はたしかにその後、みすず書房版を買うまで枕頭へ侍らせた書の1冊ではあるけれど、如何なる経緯か判断か、集中の名品と謳われる「古陶器」と「豚のロースト談義」を欠く。「煙突掃除人の讃」も、ない。これはまいった。そうだ、枕頭に侍らせるも不満があったのは、削られた諸編を讃える文章が目について、架蔵のものにはそれらがなかったことに由来するのだった。
 この1冊のために部屋を大捜索せねばならない。嗚呼、なんたることか。備忘も兼ねて断っておくと、この本は処分したなかに入っていない。査定明細を見ても明らかだ。もっとも、買取値の付かなかったものが全部で10数点あることから、そのうちの1冊になっていないとは限らぬ。が、今世紀に出版されたみすず書房の本を裁断本に回すなど、新古書店もそこまで馬鹿であるまい。
 いまわたくしの脳裏を、或る映像がずっと過ぎっている。開梱したダンボール箱、文庫が2列になって収まり、その上に単行本が数冊乗っており、そのなかに水色をベースにした落ち着いた装丁の<大人の本棚>シリーズの1冊、ラム著山内義雄訳庄野潤三解説『エリア随筆抄』のある光景が。それを追い求めて先程まで積みあげられたダンボール箱を片っ端から汗かきながら開梱し続け、念のためと称して整理終わっている書架を点検し続けた。が、どこにも『エリア』はいない。
 斯様な次第により、昨日のエッセイにて呟いた「家庭」にまつわるそれの執筆はしばし棚上げだ。残念。捜索には全力を挙げる(つもり)。発見したら、改めてここでお知らせしよう。
 それにしても、あるはずの本が忽然と姿を消す、って、わたくしの部屋は四次元空間と繫がっているとでもいうのか?◆

※「傘がない」を変換したら「嵩がない」と出た。うん、たしかに「嵩がない」ってのは深刻なんだけどな。□

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第2745日目 〈本日休載のお知らせ──「家庭」についてのエッセイを書こうとすると、気持ちが鈍る時期になった。〉 [日々の思い・独り言]

 表題の通りなのですが……「休載」だって。普段は「お休みします」なのに。もったいぶったいい方して、おかしいね。でも、なんだかちょっと格好いい。
 エッセイの仕込みに『エリア随筆』や司馬遼太郎、山口瞳、源氏鶏太の随筆を引っ繰り返していたのですが、心千々に乱れて文章は滅裂で、内容はだらけている。要するに、いつも以上に非道い、ということ。
 「家庭」というものについて書こうとしていたのだが、気持ちが重い。この時期になると、どうしても心が囚われてしまう。来秋は亡き婚約者の誕生日、来月の後半はあの子の命日だ。それまでこの憂鬱は続きそう。
 とまれ、本日はお休み……もとい、休載とさせていただきたく……ぷぷぷ、やっぱりなんだか可笑しいや。◆

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第2744日目 〈季節の変わり目、逝きし人の想い出を胸に甦らせる。〉 [日々の思い・独り言]

 台風一過の今日(昨日ですか)、夜が明けてずっとバタバタしていた。やっと一息ついてお昼ご飯にしようとしたら、親戚縁者からの電話が続き、そのうちの1本は叔母の逝去を知らせるものだった。
 季節の変わり目には人が死ぬことが多い。馴染みの坊主から聞かされた話である。実際この時期坊主のスケジュールは空白の日がすくない。叔父も、従兄弟も、そうだった。あの人たちはみな、季節の変わり目、知らず逝ってしまった。これからわたくしはあとどれだけの、親しい人を見送ればいいのだろう。
 逝った人たちの顔、想い出を胸のなかによみがえらせながら、呆けたように本を読み、ぼんやりと聖書を開く。「愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。/今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(詩88:19)◆

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第2743日目 〈台風19号が通過するのを待ちながら、『江戸川乱歩の推理教室』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 現在22時13分。台風19号(ハギビス)は19時すこし前に伊豆半島へ上陸、つい先程までは町田市付近を通過中とあった。横浜市は予報通り、20時30分頃から21時までを雨風のピークとして、いまは雨風も収まりつつある。むろん、まだ予断は許さないけれど──。
 さいわいと家がある地域は高台で、河川が氾濫しても(そういえば最近、「氾濫」という単語が常連となりつつある。伊藤整の小説の影響か)被害が出ることはまずないのだが、知己の住まう他区や他市にはレベル4の避難勧告が出ている。いまもYahoo!やウェザーニュース、NHKの台風情報ページを見ているけれど、警報が容易に解除されるわけは当然なく、どれだけ風雨が収まりかけていて、台風が北関東・東北へ移動しているとはいえ、今夜中は避難所で大人しくしていていただきたい。そう知る人、知らぬ人にお伝えしたい。北海道から運悪しく(?)こちらへ遊びに来てホテルに足止めを喰らっている知人もあるが、どうか早合点と勇み足はおやめいただきたい。
 ──読書に励もうとしても台風情報が気になって気になって、とうてい集中して読めるものではなかった。気休めの材料にはなっても、完全に気をそらすには役不足なんだな、と改めて実感。とはいえ『江戸川乱歩の推理教室』(ミステリー文学資料館編 光文社文庫)を読んでいると、これまで名前も知らなかった作家がずらり収録されており、新保博久の解説にある簡単な作家紹介と併せながら1作1作を読み進めていった。
 そのうち、飛鳥高「飯場の殺人」は単なる犯人当ての域に留まらず、捻りの利いたオチに奇妙な感動すら覚えた、今日まで読んだなかではピカイチの作品というてよい。トリックそのものは、明かされてみれば単純なのだが(まぁ、そういうものなのかもしれないが)、この人の手掛かりの文中への埋めこみ方には、ちょっと唸らされてしまった。巧みである。
 仁木悦子「月夜の時計」はトリックも犯人も見破れた数少ない作品だが、むろん、誰が読んでもわかるという代物ではない。たぶん、似た傾向の作品があったのを読んで、たまたまそれを覚えていたに過ぎぬのだ。ほんの些細な記述が解決に結びつく、という根本的な事柄を否応なく思い知らされたのが宮原龍雄「消えた井原老人」。要するに、きちんと読め、読み急ぐな、書かれたことをとっくり検分して隅々にまで目を凝らせ、ということである。千代有三「語らぬ沼」はスキー客の集団内で殺人事件が発生するのだが、雪山での事件という点に留意して読めば、犯人と殺害方法は自ずと明らかになるはず。
 そうして、「そこがキモであったか!?」と自分の見落としに呆れ返ったのが、鮎川哲也「不可能犯罪」であった。「達也が嗤う」と「薔薇荘殺人事件」を読んでいるとはいえ、そこは本格の名手、鮎川の出題作品である。解決してしまえばこれ程わかりやすい手掛かりもないにもかかわらず、読んでいる最中はどうしてか見落としてしまう……如何に手掛かりを文脈に紛れこませるか、読者の目を眩ませるか。飛鳥高の作品と並んで、本書収録作品のうち特に犯人当て小説のお手本と呼んでよい一編といえるだろう。
 本書には「頭の体操」と「諸君は名探偵になれますか?」というそれぞれ3つの、乱歩からのトレーニング問題が載る。また、また、木々高太郎出題の「宝石商殺人事件」に、乱歩と水谷隼が対談形式で真相に迫る愉しい作品も載っている。
 本書の元版が昭和34年とあって風俗や社会事象、文章に古めかしさは感じられるけれど、作品の質は折り紙付きで、けっして時代遅れの代物ではない。現代作家の犯人当てがなんでもありの様相を呈しているだけに、このシンプルかつストレート、けれどちょっと一筋縄では行かない作品群に頭を悩ませ、正解を導き出して一種の「アハ体験」をしてみるのも宜しかろう。
 明日もしくは明後日から続編『江戸川乱歩の推理試験』の読書へ移る。秋の夜長は始まったばかりだ。ミステリを読み耽るにこれ程喜ばしい季節が他にあろうか?◆

追記
 現在23時59分。台風19号は水戸市の西を約30キロのスピードで北東へ進んでいる由。北関東以北の土砂災害警戒情報と各種警報がいきなり増えたことが、それを実感させる。大きな人的災害や河川の決壊などが出ぬことを祈りたい。
 とりあえず、首都圏は史上最大級最強クラスの台風をやり過ごすことができた。みな元気だ。家もアパートも、支障はない。ご心配くださった方々、ありがとう。サンキー・サイ。□

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第2742日目 〈台風19号がやってくる。安全である間は、ミステリ小説を耽読していよう。〉 [日々の思い・独り言]

 太平洋上をぶいぶいと日本へ近付いてきます。こちらの心配と不安をよそに「HELLO!!」とばかりにやって来る。時々刻々と日本列島に接近してくる、台風19号。
 太平洋沿岸地域の自治体は早くも避難勧告を出し、通過予想地域の自治体も一部が避難場所を告知している。昭和33年の狩野川台風に匹敵するレヴェルということは即ち、もはや「最強」という言葉や概念では括れないクラスの台風であるのと同義。伊豆半島でも狩野川流域の伊豆市が早々に避難勧告を出したのは、なによりこの点に起因するところが大きそう。
 気象庁発表、NHKのニュース、その画面上のテロップにいう;過去にこのクラスが関東に上陸したことなしとぞ。
 いまは令和1/2019年10月11日、23時33分。横浜も雨脚が強くなってきています。窓やシャッター、屋根を叩く雨音は、気のせいか弱まる様子がない。風がないのがまだ幸いだけれども、24時間後には暴風に恐れおののき、悠長にこのようなことを書いている余裕はないかもしれぬ。
 懐中電灯、水、非常食、ラジオ、乾電池、充電済みのモバイル機器(とノートパソコン)とバッテリー、蠟燭と燐寸。ずいぶんと久しぶりに物置から引っ張り出してきたものも多い。備えが万全とはとてもいえない。が、これだけでも気休めにはなる。
 昼のうちに庭のプランターや物干し台を動かしておいて、よかった。オリーブの木を切っておいて、よかった。前回の台風15号の轍は踏まずに済む。
 さりとて台風来たると予報されていた明日明後日は、週末である。三連休の1日目と2日目という、あまりありがたくないタイミングではあるが、まぁ仕方のない話である。この時期に台風被害に遭いたくないなら、海外脱出がいまやいちばん現実的な方法となった。日本に住まう限り、台風から逃れることはできない。
 わたくし? 三連休はどこへ行く当てもないので、家にこもって読書に励もう。もしくは録り溜めた映画を観るか。いずれにせよ、インドア・ライフである。運良く未読のミステリ小説が何冊も待機中だ。ちかごろ意識して集めていた犯人当てミステリも、週末愉しむにはじゅうぶんな数がある(それでもすぐ手に取れるのは、5冊のみだ)。頭をひねくり回しながら、読み耽ろう。
 ちなみに内訳は栗本薫『鬼面の研究』(新装版 講談社文庫)、鮎川哲也『ヴィーナスの心臓』と『埋葬行進曲』(いずれも集英社文庫)、ミステリー文学資料館編『江戸川乱歩の推理教室』と『江戸川乱歩の推理試験』(いずれも光文社文庫)の5冊。ここ数日は『推理教室』を寝る前のナイトキャップ代わりにちびちび読んでいたが、明日はがっつり取り組むことができそう。外の様子は気になるが、なんというても読書は罰せられぬ悪癖なのだ。この愉しみは王侯貴族の地位にも代え難く(わたくしが性別;女性なら「妃の位もなににかわせむ」というところだね)、剥奪できるとすればまことに不謹慎ながら天変地異ぐらいのもの……。
 ──おや、いまは雨音が聞こえない。わたくしだけが聞こえないのか? 否、今宵の故郷ただいまは雨上がりである。が、これも刹那の現象。嵐の前の静けさに過ぎぬ。夜が明ければ関東は、いよいよ台風19号の勢力圏下である……。
 わたくしは本稿を〆括るにあたり、非道く場違いながらこれ以上に相応しいものはないとも考えている、先人の文章を引こうと思う。曰く、「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」(太宰治『津軽』P211 新潮文庫)◆

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第2741日目 〈ブックオフオンラインの店舗受け取りサービスを利用してみました。〉 [日々の思い・独り言]

 ブックオフオンラインを日常的に利用しています。買うのも売るのも。とはいえ、売り先としては選択肢の1つに過ぎない。ここの買取とその後の本の行方については別稿を設けるので、いまはそこへ足を踏み入れるのはやめておく。もっとも、内情暴露すれすれの一線で踏みとどまれる自信は、まるでない。
 というわけで、買い物について、今日は少々。なお、ブックオフオンラインは以下BOLと略す。
 もう始まってしばらくになるけれど、購入商品を街角の店舗で受け取れるようになった。BOLのサイト上では受け取れない商品がある旨告知しているが、検分した範囲内では書籍は概ね受け取れることができる様子。DVD/Blu-rayやCDも店舗受取りは可能だ。「よくある質問」には「新品商品など、一部の商品は店舗受取りが選択できません」とある。中古として扱われている商品は基本的に店舗受取り可能と考えてよいだろう。
 このサービスをはじめて試してみた。どうしても読みたい文庫をBOLのサイトで発見したからだ。価格は税込み110円。が、BOLは送料無料にするためには、1,500円分の買い物をする必要がある。けれど、送料無料のためだけに点数を水増しするのも嫌だ。という次第で、送料も手数料も不要な店舗受取サービスを利用してみる気になったわけ。わたくしの場合、いつも代引きで受け取っていることから、都度受取り時の手数料が発生するのだ。
 繰り返すが、なにぶん初めての経験である。どのように受取り希望の店舗で保管されているのかなど、いろいろ不安があった。前に触れたどうしても読みたい文庫以外に紀田順一郎と荒俣宏の本を注文したことに加え、値引きクーポンも使って買い物することで、どんなものか、とこのサービスを試ししてみた
 注文から数日後、店舗に商品が到着している旨BOLからメールが届く。受取り期日が記載されているので、その日までに引き取れば構わない。あとは手空きのときに、或いは時間を作って指定した店舗へ出向けばよい。
 それはあっけない程簡単に終わった。レジにて「BOLで購入した商品を店舗受取りにしている」旨名前と一緒にスタッフへ伝える。そこから先は、向こうにお任せだ。スタッフがレジ下から台帳を取り出して、伝票を確認する。そうして商品を取りに行く。この店がどこに当該商品を保管しているか、犯罪防止とセキュリティの観点から記述は省略する。
 本当にあっけなく終わった。そうして、今後の可能性と問題点を考えた。問題点については各店舗に起因することだからここでは述べない。セキュリティの問題である、とだけいうに留めよう。
 可能性は、簡単なことである。送料を無料にせんがため、躍起になって1,500円以上の買い物をする必要はなくなったのだ。無駄な買い物は別にしたっていいが、無理な買い物は断じていけない。それが生活を圧迫したり、信頼を損なう結果に繫がりかねないなら尚更だ。後者に関しては、金融機関/証券会社とやり取りが発生している人は、特に気をつけなくてはならない。
 また、受取りができる店舗をもう少し増やしてほしい。どのような基準で店舗が選ばれているのかわからないけれど、わたくしの場合は市内にもう数ヶ所、特に頻繁に足を向ける店舗でこのサービスが利用できるようになってくれると、たいへんありがたいのだが。
 ただ倩顧みるに、店舗受取サービスを利用する際は他人目に触れても構わないような商品を、BOLから購入するようにしなくてはならない。すくなくともわたくしは、このサービスを使って官能小説やアイドルの写真集などを購入する度胸はありません。むろん、その度胸等がある方はどうぞ、がんがん利用されるが宜しい。◆

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第2740日目 〈それは、夫婦の夜の営みと同じぐらい自然で、日常的なこと。〉 [日々の思い・独り言]

 家人が呆れております。よく観察すれば、こめかみに血管が浮いているのが見えそうです。なぜ、ですって?
 ──これまで本を処分している旨何度かご報告させていただいております。宅配業者は午前中やって来て、処分本のつまったダンボール箱を持ってゆく。重い荷物をえっちらおっちら、抱えてトラックへ積みこむ。そうして同じ日の午後、同じ人が今度はわたくし宛の荷物を持ってくる。送付伝票に記載される内容物は「書籍」であった。
 今月に入って伊藤整『氾濫』(新潮文庫)が届いた。一昨日はダウスン/平井呈一『ディレムマ』(思潮社)とホフマン/平井呈一『古城物語』(奢灞都館)が届いた。今日は島田荘司『龍臥亭事件』上下(光文社カッパノベルス)が届いた。合計価格はここでは記さぬ。ダレガソンナコトヲスルモノカ。
 いえね、要するに増税云々とは関係なくそこに買うものがあれば買うのですよ。もはや日常的な行為なのであります。読みたい本があれば、買う。訊きたいCDがあれば、買う。観たい映画があれば、券を買う。当然の営みではありませんか。夫婦が夜の営みを持つのと同じぐらい、当たり前のことであります。
 見るがよい。令和初の大規模掃除の結果、がらんとした棚が幾つもあることを。そこには埃を除けば物体はなにもない。そうして今回、わたくしの許へ届いた本はそれとは別の、元から用意していた場所へ安置される。即ち、これらの本の到着と収まる場所があるのは、あらかじめ予定されていたことを知ってほしい。やましいところなど、これっぽっちもないのだ。
 さて、それではこれからお仕事に……。◆

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第2739日目 〈部屋のお掃除;瓢箪から駒編〉 [日々の思い・独り言]

 いつまで続くんやろ、このシリーズ。そろそろ新章突入と行きたいが、そうは問屋が卸さない。
 さて、表題の件、以下のように申しあげます。
 ずっと掃除を続け、片附けと処分本の選別を並行して続けてきた。その最中、出るわ出るわ、学生時代から買いこんだ岩波文庫が。ページを開けば。薄茶の染みが浮かんでいる。活字は細く、所々が霞んだり消えてしまっている。また、地の背表紙側とページの上端が黒ずんでいたり、カバーの背も高温と煤煙で変色した本があれば、あの日の事故の記憶を否応なく思い出させる。
 書架のあちこちに散らばった岩波文庫を目にするにつけ、ふと、これを一堂に会させたらいったい何冊ぐらいあるんだろう、と考えた。なにしろダンボール箱を開くとそこにはたいてい数冊の岩波文庫が紛れこんでおり、「またあったよ……」と苦虫噛みつぶしたような顔になるのを否めぬのだ。もっとも、岩波文庫ばかり集めたダンボール箱が2つあるのだから、斯様な事態に陥るのも致し方ないところではある。
 壁時計を見あげると、針は間もなく午前2時を指そうとしていた、或る日の夜更け。そろそろ作業を切りあげて今日は終わりにするか。Let’s call it a days.
 そんなとき、なにかがわたくしの耳許で囁いた。砂漠で40日間の修行に耽るイエスを誘惑する悪魔のように? ご想像にお任せする。さて、そいつはこう囁いたんだ。曰く、「”岩波文庫の100冊”って、お前が架蔵するものに数冊足したり入れ替えれば、それで事足りるんじゃないか?」と。続けて、「だってそのリストは結局、お前が誰彼にお奨めするとしたらこれをどうぞお読みください、と選んだものに過ぎんだろ。だったら個人の趣向が多分に入りこむのは仕方ない。上から目線でセレクトする必要も、戦前の教養主義を気取る必要もないだろう。自由気ままに、好き勝手やっちまいなよ」とも。
 その晩、布団に入って輾転惻惻。ずっと考えた。数々の誘惑を退けて、熟考した。空は白み、雀たちが庭に降り立って「朝ご飯の時間だ、餌よこせ」と合唱し始める。が、それらに思考を妨げられたりはしなかった。その時間には既に結論が出ていたからだ。公にするのが今日まで遅れたことに、特別の意味はない。ネタが切れたら苦し紛れにこの話題を持ち出すつもりでいたのである、とは、けっして声を大にしていえるものではない。……ん?
 あまりの刊行点数の多さに目眩を起こし、計画を放棄することすら検討していたところに、一つの僥倖が訪れた。素直なわたくしはそれに従う。真剣に考えすぎたため、目の前の持ち物に気が付けなかったわたくしを、どうぞ読者諸兄よ、笑ひたまへ。開梱されたダンボール箱のなか、書棚の奥、机の上。あちこちに答えはあって、わたくしが気附くのを待っていたのだ。
 斯様な次第で、セレクトする書目は一挙に解決した。もしかするとわたくしの蔵書目録を兼ねるだけの結果になるかもしれないし、或いは途中で大幅に方向転換して現段階で考えているものとはまったく別物のリストができあがる可能性だってなきにしもあらずだけれど、そこはそれ、どうかご寛恕願いたい。
 まさかこんな簡単な解決法があったとは……と肩を落としているわたくしは、かつてヴィルヘルム・フルトヴェングラーが残した言葉、即ち「偉大なものはすべて単純である」を換骨奪胎してこういおう、「複雑な問題の答えは常に単純である」と。うまく纏まらなかった。お粗末。◆

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第2738日目 〈ミステリーの日に因んで、人生ではじめて読んだミステリ小説のことを書こう。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日10月7日は「ミステリーの日」だそう。
 ちょうど170年前の1849年10月7日、アメリカの都市ボルティモアで作家、エドガー・アラン・ポオが亡くなった(享年40)。ミステリ小説の始祖、ポオの命日に因んだ記念日が、この「ミステリーの日」である。
 Twitterにはこれを記念したツイートが、多く流れている。そんななか、こちらの目に留まったのが、「皆さん、初めて読んだミステリはなんでしたか?」という綾辻行人のツイート。おもわずリプライしかけた。しかけた、というより、実際しようとしていたのだけれど、文字数制限に引っ掛かって、諦めた。そうしてブログに転用することを思いつき、リプライの件は放棄した。
 ……そこで自らに問う、お前がはじめて読んだミステリはなんぞや?
 中学3年生のとき、図書室で赤川次郎の『幽霊物語』上下(集英社)を単行本で読んだ。クラス全体で図書室を利用していたように思うから、国語の授業の一環だったのかもしれない。当時の風潮を思えば、学校図書室に現代の小説が入っているのも面妖だけれど、とまれ、わたくしはこの小説を気に入ったようだ。借り出して、歩きながらすこしだけ読み、帰宅してFM放送を聴きながら読み耽り、夜更けに読了した記憶がぼんやりと残っている。
 高校に入るとお小遣いやあの手この手で稼いだお金を懐に、学校帰りの乗換駅の大型書店は文庫売り場で週1か週2の頻度で、赤川次郎の文庫を買い集めてゆくようになるのだが、これは本筋から逸れたお話である。
 が、先程思い出したが、人生ではじめて読んだミステリは、赤川次郎ではなかった。では、記憶をもう少し前の時代まで遡ってみよう。さて……、
 中学進学のお祝いに母方の祖父が、南極犬の本と一緒にシャーロック・ホームズの長編を贈ってくれた。コナン・ドイル『緋色の研究』。ホームズ譚がはじめてこの世に産声をあげ、ホームズとワトスンがはじめて出会い、共に事件を解決した記念すべき1作である。これをどれだけ夢中になって読んだか、小口が手垢でまみれ、ページの角が丸まったり折れたり、本体に一部割れが認められるところから、どうぞご想像いただきたい──。
 この頃は学校図書館の常連というわけではなかったし、かというて親にせがんで他のホームズ譚を買ってもらう、という発想もなぜか持たなかったので、シャーロック・ホームズの数々の冒険譚に再会するまでそれから5年ばかりの空白期が生じた(再会のきっかけは当然、NHKにて放送されたグラナダ版ホームズである)。
 が、先程思い出したが、人生ではじめて読んだミステリは、コナン・ドイルではなかった。当然、子供向けにリライトされたポオでもない。と、ここで話がいきなり脇道に逸れるが、わたくしは高校の学校図書室で暇を潰しているときに、ポオの小説を知った。名前は知っていても作品を読んだことはない、というよくあるパターンだ。旺文社文庫の作品集で、学校図書館向けに表紙と裏表紙が単行本と同じ仕様になっている。なにがどのように気に入ったのか、たぶん「赤死病の仮面」と「アッシャー家の崩壊」に惹かれてと思うが、何度となく借り出したっけ。今も図書室にその文庫があり、貸出カードが残っているならば、わたくしの名前が何行にもわたって書きこまれているはずだ。──では、本道に戻ろう。
 そうして先程思い出したのだが、人生ではじめて読んだことを記憶しているミステリ小説は、小学校の図書室の蔵書であった。断っておくが、それは江戸川乱歩の少年探偵団でもなければ(実は1冊も読んだことがありません。自慢っぽく言ってみる)、ルブランのルパンでも、況んやドイルのホームズ譚でもない。正直なところ、タイトルはまるで覚えていないのだ。物語の筋もかなり曖昧になっており、……ヒッチハイカーが誰かに殺される。それを近くの町の少年少女が調べ始めて、真相に辿り着く、というもの。
 他にもいろいろ覚えていることはあったが、歳月が経るのに併せて忘却の河レイテへそれらは流れ去った。哀しいことである。
 たしか背表紙にはシリーズ物であることを示すデザインが施されており、上部には鍵穴のイラストが描かれていたのではなかったか。紙質はいまに較べて厚く、ざらついている。ページ数は、たぶん300ページぐらいはあったか。挿絵はある。
 進学して神保町・本郷・高田馬場の古書店街、中央線沿線の古書店を定期的にほっつき歩くようになると、特に児童書やミステリを扱う古書店に足繁く通ったり、古書目録へ目を通すようになったのも、心のどこかでその本を探し出して、もう一度読んでみたい、と思うていたからだろう。
 が、うすうす読者諸兄はお気附きかもしれぬが、未だわたくしはその、人生初のミステリ小説を入手できていない。それどころか、タイトルや著者さえ不明である。死ぬまでにこの手に持つことが叶うといいなぁ。◆

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第2737日目 〈部屋のお掃除、問答編;書棚の片附けと部屋の掃除をいま思い立ち、行うはなぜか?〉 [日々の思い・独り言]

 掃除をするときはマスクをしましょう。たった1日これを怠っただけで、喉をやられ声を出すのも一苦労な目に遭っております。おまけになんだか体が重く、寝不足ゆえか一つ行動を起こそうにも気持ちが付いてゆかない、気怠く憂鬱な日曜日。空は低く雲が垂れこめ、風は冷たく、ときどき雨がさーっと降る。肌寒い。そろそろ本格的衣替えの時期かもしれぬ。というわけで、今日は大事を取ってお掃除とお片附けはお休み。……今日こそ早く寝て、体調を整えるぞ。朝6時頃だったからなぁ、けっきょく寝たのは。
 いまこうして書棚の片附けと部屋の掃除を思い立ち、行っているのは、むろん、快適に生活できる最低ラインを割ったこと(=住環境の悪化)に加え、必要な本がどこにあるか、特定の本が架蔵されていたか、まるでわからんてふ状況が日常茶飯事になってきたこと、人間の可動領域が著しく侵されてきていること、が要因として付随する。もし他に因子となるものあるとすれば、TwitterのTLに折節、各人の書棚を映したツイートが流れてきて、それを見続けているうちに感化された、ということか。
 発端はともかく、斯様に掃除と片附けを続けてきて、はた、と思い至ったことがある。こうやって殆ど毎日どこかしらを掃除してゴミ出していれば、年末に時間を割いて無理して大掃除する必要ないじゃん、と。これは、わたくしには大発見である。子供の頃から<大規模>掃除は年末にするもの、という思いこみ乃至は刷りこみ(呪縛、ともいうか)がありましたからね。それから逃れることって、難しいと思う。だから、年末になると日本人はバタバタ騒ぎ出す。第九に浮かれてる場合じゃぁ、ないのだ。どこかの消費者金融のCMではないが、計画的に、なのである。
 そうした上でわが部屋を顧みて、つらつら思う。このペースでゆけば年末はクイックルワイパーや掃除機で床掃除すれば済むに相違ない、と。うーん、その日に備えてジャパネットで新しい、部屋用の掃除機を買おうかな。◆

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第2736日目 〈書棚の整理、第一幕;幻想文学に別れを告げた──。〉 [日々の思い・独り言]

 どうもどうも。片附けに熱中していて、ふと壁時計を見あげたら疾うに午前2時を回っていたので、いいやこのまま片附けを進めよう、と諦めをつけたみくらさんさんかであります。
 いや、本当にそちらへばかり気持ちが向いていたのですよ。2列書架の反対側に本棚が2竿置いてあるのですが、そのうちの1竿に取り掛かる前段階として、積みあげてあるダンボール箱の山を検める必要があった。そのために時間を喰ってしまったのでした。
 予定より大幅に作業時間が必要となったため、TOKYO MXにて今日から再放送が始まる『ハイスクール・フリート』も『ラブライブ!』(無印)もリアルタイム視聴ができなかった……残念! でもないのだ、あらかじめこうなることを予想して、予約録画しておいたからね。この原稿が書き終わったら、ビール片手に観るのだ。
 アニメといえば、ファミリー劇場では本日から「『宇宙戦艦ヤマト』プロジェクト」と称して、旧TVシリーズ第1作第1話からほぼ全作を銀河初オンエア。慶事である。これを祭りといわずになんという?
 が、不満が2つ。1つは劇場版第1作に対して。ラストはおそらくスターシャが生きているヴァージョンだろう。どうせなら死亡ヴァージョンも放送してくれればいいのに。あともう1つは、なんでキムタク版ヤマトも放送しないのか。ちなみに他のチャンネルでもこれの放送予定はない(現時点では)。嗚呼!
 えーと、なんの話だっけ? そうそう、ダンボール箱を1個1個開けてなにが入っているのか確認した上で、今回は専らミステリと幻想文学の棲み分けと処分本の選別、それと並行して棚の本を入れ替えたのだ。体力の消耗と集中力の途切れを感じながらも、どうにか2019年10月06日(日)午前2時30分過ぎ、ひとまず終わらせて一服した後これを書き始めた次第であります。
 いやぁ、今日も処分する本が出た、出た。ミステリはともかく幻想文学については、よくあれだけの冊数を古書店行きのダンボール箱に入れられたものだ。感心している。淋しさが強いけれど、見栄を張って「関心」と書いておく。
 このジャンルの本には一際烈しい執着を抱いているわたくし。火事を乗り越えて自分のそばに在り続け、時に心の拠り所となり、時に慰めと回復の役目を果たしてくれたからだ。今日まで1点たりとも散逸させることなく書棚に在ったそれらのうち、2割程度でしかないが、わたくしは別れを告げた。きっと時間が経ったら、そこに本がないことに悲しみを覚えることだろう。しかし、こうするより他ないのだ。死蔵とはいわぬ。が、わたくしがそれを読むことはゆめあるまい。それは確信にも等しい。古すぎる本ばかりなので買値も付かず、その他たくさんの廃棄本といっしょに紙屑業者の2トントラックに投げこまれ、リサイクル場へ運ばれるのだろう。断腸の思いで別れを告げた愛した本たちの末路は、悲しい結末を迎えるものなのか。
 悲しみは胸にしまい、明日を迎えよう。そうして手を休めることなく、片附けと掃除を続けよう。体調を診ながら休むべきときは休んで、無理せずゆっくり、確実に。……でも、年末には終わらせないといけない。来年の予定が狂ってしまう。
 さて──擱筆。◆

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