第0187日目 〈ヨシュア記第3章:〈ヨルダン川を渡る〉 & 『篤姫』〉 [ヨシュア記]

 ヨシュア記第3章です。

 ヨシュ3:1-17〈ヨルダン川を渡る〉
 カナン侵入、エリコ侵攻が始まる。イスラエルの民よ、レビ人の祭司たちが契約の箱を担いで進んだら、約2,000アンマの距離を置いて従い進め。
 ヨシュアは民に斯く曰(い)ひき、主は明日、驚くべきことを行う、と。
 主はヨシュアに斯く曰(のたま)ひき、契約の箱を担ぐ者らに命じよ、ヨルダンの川岸へ着いたら、その川のなかで立ち止まれ、と。
 「見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡ってゆく。(中略)全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」(ヨシュ3:11,13)

 時は春の刈り入れ時だった。民の進軍によりヨルダン川の水はずっと上流の町で塞き止められ、塩の海(アラバの海、とも)へ注ぐ水は一切立たれた。
 嘗てエジプト脱出のときに紅海(葦の海)が割れて民がその間を通っていったのと同じように、いままたイスラエルの民は、契約の箱を担ぐ祭司らが立って干上がったヨルダンの川底を通り、目指すエリコへ進んでいった。

 出エジプト記の遠いエコーですが、嘗てほどの逼迫感がないのは、民に主が示した明確な目標━━<約束の地>に住まう先住者の駆逐と占拠という明確な目標があって、それが支えになっているためなのかもしれません。



 いまさらながら『篤姫』を観ているよッ! DVD全巻レンタル計画進行じゃ。でもまだ後半の巻は新作扱いで、半額で借りても3日後には返さねばならぬのじゃ。なんとかして頂きたいのじゃ。放送中も殆ど毎回観ていたのにな~。
 閑話休題。
 幕末の人々って、みんなまっすぐだったんだな。自分の信念や理想、希望や夢、誇りにまっすぐな志を持っていた人々じゃった。調書(ずしよ)さまだって御自分の信念に生きて潔く自害なされたお方じゃ。彼らの末裔である現代の日本人は、彼らの目にはどう映るのだろう。
 吉田拓郎の「落陽」という歌の一節にあったな、「♪この国に賭けるものなどないさ」と。ゆえに流離いつづけるより他にない、と? そこまで落ちぶれた国民ではない、そう俺は信じる。

 ……で、大手町の大手企業にて商談後、本屋で宮尾登美子の『天璋院篤姫』(上下・講談社)を買って車中にて読み耽る。むろん、ドラマの原作じゃ。◆

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