第0272日目 〈サムエル記上第5章:〈神の箱、奪われる〉2/2〉 [サムエル記・上]

 サムエル記上第5章です。
 サム上4と続けてお読みいただくことを望みます。また、士師記第16章(第0238日目〈士師記第16章:〈サムソン〉4/4〉)も併せてお読みいただけると、本章の背景がよくわかると思います。

 サム上5:1-12〈神の箱、奪われる〉2/2
 ペリシテ軍は奪った神の箱、契約の箱を、イスラエルが陣を張っていたエベン・エゼル(「助けの石」の意味。サム上7:12を参照)から自分たちの町、アシュドドヘ運びこんで、自分たちの神ダゴンの神殿へ置いた。
 だが、神の箱は単なる戦利品ではなかったのである。
 二日続けてダゴンの神像は箱の前に倒れていた。特に二日目の朝に発見されたときは、像の頭と両手は切断されて神殿の敷居のところに転がり、胴体は元の場所にあったのだった。
 「今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。」(サム上5:5)
 「主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。」(サム上5:6)
 アシュドドの人々はイスラエルからの戦利品を恐れ、集められたペリシテの全領主に相談して、神の箱をガトへ移した。が、その地でも主の手はガトの人々の上にのしかかり、はれ物が蔓延した。
 そこで神の箱はエクロンへ移された。が、既にアシュドドとガトを見舞った災難を知っていたので、エクロンの人々はこぞって猛反発して、神の箱が町に入り置かれることを頑なに拒否した。
 再び集められたペリシテ人のすべての領主は論議の末、神の箱をイスラエルに返すことに決めた。そうすれば、ペリシテの民が殺されることはなくなるだろう。そう考えてのことだった。
 「実際、町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた。死を免れた人々もはれ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達した。」(サム上5:11-12)

 主の御手が敵の上に重くのしかかる、という描写はいままでもありましたが、これ程に徹底されたケースは類を見なかったように思います。強いて例を挙げれば、出エジプトの際に似たケースがあった、と記憶しますが。でもそれは、主が自らの民のために振るった怒り、裁きでありました。
 今回は、異神を崇める者らに奪われた〈神の箱〉/〈契約の箱〉が振るった怒りであり裁きであった点で、特筆すべき章といえるかもしれません。
 また、一つ単純な疑問が。上で引用はしませんでしたが、「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない」(サム上5:7)と承知しておきながら、なぜペリシテ人は自分たちの領内の町━━いずれもペリシテの5大都市でありました(明日のサム上6をお読みください)━━をたらい回しするようなことをしたのでしょうか?
 「我々のうち」とは、即ち、個々の町の意味であったか。否、とさんさんかは思います。アシュドドの災難、ダゴンの神殿での事件を経験したあとなら、もはやイスラエルの象徴ともいえる神の箱を、自分たちの領内に置くことは更なる災難を招くばかりだろうことは、わかりきったことであるはずでしょう。なぜ自分たちにとって重要な町を滅ぼしかねない行為を繰り返したのか? 一言でいって、愚としか申せません。
 ゆえにここでのペリシテ人の対応には小首を傾げたくなるのであります。
 ただ見方を変えれば、戦勝者側があらゆる掠奪品に示す占有欲について、とてもよく書かれた章ではありましょう。……まさか、そんな教訓を含んだ章であったのかい!?



 あなたを想う、あなたが王国。
 砂と煙のなかにあってさえ。◆

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