第0285日目 〈サムエル記上第16章:〈ダビデ、油を注がれる〉&〈ダビデ、サウルに仕える〉〉 [サムエル記・上]
サムエル記上第16章です。
サム上16:1-13〈ダビデ、油を注がれる〉
サウルのことで嘆くサムエルを主は叱咤した。そして、いった。ベツレヘムの長老エッサイの許へ行け、彼の息子たちのなかに次なるイスラエルの王を見出した、と。
サムエルは出掛けて、いけにえの食卓にエッサイとその息子たちを招いた。長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマが卓に着いたが、主はなにもいわれなかった。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上16:7)
エッサイにはまだ末の息子がいた。いまは羊の番をしているという。サムエルはその者を呼びに出させた。やって来た末っ子は健康で見目麗しく、立派な男子であった。そのとき、主はサムエルにいった、━━
「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」(サム上16:12)
サムエルはエッサイの末の息子、即ちダビデに油を注いだ。その日からダビデには激しく主の霊が降るようになった。
サム上16:14-23〈ダビデ、サウルに仕える〉
主の悪霊(あくれい)がサウルを襲い、苛ませた。これは主の霊がサウルを離れたからである。
家臣は、王に侍る竪琴の名手を探させるようサウルに提案し、サウルはそれを命じた。
家臣(従者)の一人には、これと定めた者があった。即ち、ベツレヘムの長老エッサイの末子ダビデである。竪琴が上手なだけでなく、「勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見もよく、まさに主が共におられる人です。」(サム上16:18)
ダビデはさっそく召され、サウルの大層なお気に入りとなった。王の武器を持つ者にまで取り立てられた。ダビデの竪琴は主の悪霊を離れさせた。
斯様にしてダビデはサウルに仕えるようになった。
サムエル記を彩る最後の主役、貞女ルツの系譜に連なる者、ダビデの登場です。
ダビデが油を注がれる過程、ダビデの容姿。いずれもかつてのサウルを思い出させます。というよりも、サウルの語り直しと捉えてよいかもしれません。
ただサウルと異なるのは、ダビデが「まさに主が共におられる人」と非ダビデ圏に身を置く(はずの)サウルの従者までが知り、認めていること。この表現が伝聞でなく断定である背景を、とく吟味すべきなのかもしれません。
いずれにせよ、ダビデは王の近くに呼ばれ、仕えることになりました。そして、サウルは心身とも弱体しています。間もなく、われらの言葉でいえば、政権交代が為されます。
今日(昨日ですか)は大桟橋へ、日本丸と海王丸の総帆展帆を観てきました。そのときだけは天気に恵まれ、たっぷりとした風を孕んで総帆した帆船の勇姿が大桟橋に集まった多くの観衆の心を鷲摑みにしました。
マストに上ってゆく約100人の練習生が号令一下、一枚一枚の帆を次第次第に開いてゆく様は、まさしく至芸の技としかいいようがありません。十代も終わるころまで、ぼくは海技学校か商船大学に行って船乗りになることを目標にしていました。だから、あの練習生たちはいまでも憧れのいちばん手前にいる存在なのです。
なぜ、船乗りを諦めたのか? 視力ですね。それだけです。でも、海の上に出たらそれほど重要なものはありませんから……。
しかしながら夢や憧れは、簡単には消えません。いま小説を書いていて、海が重要な舞台になったり帆船がアイテムとして出て来るのは、当時の名残でありましょう。うむ。◆
サム上16:1-13〈ダビデ、油を注がれる〉
サウルのことで嘆くサムエルを主は叱咤した。そして、いった。ベツレヘムの長老エッサイの許へ行け、彼の息子たちのなかに次なるイスラエルの王を見出した、と。
サムエルは出掛けて、いけにえの食卓にエッサイとその息子たちを招いた。長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマが卓に着いたが、主はなにもいわれなかった。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上16:7)
エッサイにはまだ末の息子がいた。いまは羊の番をしているという。サムエルはその者を呼びに出させた。やって来た末っ子は健康で見目麗しく、立派な男子であった。そのとき、主はサムエルにいった、━━
「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」(サム上16:12)
サムエルはエッサイの末の息子、即ちダビデに油を注いだ。その日からダビデには激しく主の霊が降るようになった。
サム上16:14-23〈ダビデ、サウルに仕える〉
主の悪霊(あくれい)がサウルを襲い、苛ませた。これは主の霊がサウルを離れたからである。
家臣は、王に侍る竪琴の名手を探させるようサウルに提案し、サウルはそれを命じた。
家臣(従者)の一人には、これと定めた者があった。即ち、ベツレヘムの長老エッサイの末子ダビデである。竪琴が上手なだけでなく、「勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見もよく、まさに主が共におられる人です。」(サム上16:18)
ダビデはさっそく召され、サウルの大層なお気に入りとなった。王の武器を持つ者にまで取り立てられた。ダビデの竪琴は主の悪霊を離れさせた。
斯様にしてダビデはサウルに仕えるようになった。
サムエル記を彩る最後の主役、貞女ルツの系譜に連なる者、ダビデの登場です。
ダビデが油を注がれる過程、ダビデの容姿。いずれもかつてのサウルを思い出させます。というよりも、サウルの語り直しと捉えてよいかもしれません。
ただサウルと異なるのは、ダビデが「まさに主が共におられる人」と非ダビデ圏に身を置く(はずの)サウルの従者までが知り、認めていること。この表現が伝聞でなく断定である背景を、とく吟味すべきなのかもしれません。
いずれにせよ、ダビデは王の近くに呼ばれ、仕えることになりました。そして、サウルは心身とも弱体しています。間もなく、われらの言葉でいえば、政権交代が為されます。
今日(昨日ですか)は大桟橋へ、日本丸と海王丸の総帆展帆を観てきました。そのときだけは天気に恵まれ、たっぷりとした風を孕んで総帆した帆船の勇姿が大桟橋に集まった多くの観衆の心を鷲摑みにしました。
マストに上ってゆく約100人の練習生が号令一下、一枚一枚の帆を次第次第に開いてゆく様は、まさしく至芸の技としかいいようがありません。十代も終わるころまで、ぼくは海技学校か商船大学に行って船乗りになることを目標にしていました。だから、あの練習生たちはいまでも憧れのいちばん手前にいる存在なのです。
なぜ、船乗りを諦めたのか? 視力ですね。それだけです。でも、海の上に出たらそれほど重要なものはありませんから……。
しかしながら夢や憧れは、簡単には消えません。いま小説を書いていて、海が重要な舞台になったり帆船がアイテムとして出て来るのは、当時の名残でありましょう。うむ。◆
タグ:聖書 サムエル記上