第0380日目 〈列王記上第13章:〈ベテルへの呪い〉〉 [列王記・上]

 列王記上第13章です。

 王上13:1-34〈ベテルへの呪い〉
 神の人シェマヤがユダからイスラエルのベテルに入った。未だヤロブアムは祭壇で香を焚いている。神の人は、主の言葉に従い、祭壇に向かってこういった、━━
 「見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の前で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼く。」(王上13:2)
 また、一つのしるしを与えて、こうもいった、━━
 「見よ、祭壇は裂け、その上に脂肪の灰は散る。」(王上13:3)
 神の人を捕らえようとしたヤロブアムの手は萎えた。しるしは実現した。祭壇は裂けて、焼き尽くす献げ物の脂肪の灰が散った。
 ヤロブアムは神の人に許しを乞い、お礼に歓待しようとしたが、シェマヤはこれを断った。
 「わたしは一緒に参りません。ここではパンを食べず、水も飲みません。主の言葉に従って、『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められているのです。」(王上13:8-9)
 神の人は来たときと別の道を通って、ユダへの帰途に就いた。

 そのベテルの地に一人の老預言者が住んでいた。彼は神の人の話を、息子たちから聞いた。辿った道を知ると、預言者はロバの支度をさせて神の人を追った。
 固辞する神の人を欺いて自分の天幕へ招いた老預言者に、主の言葉が臨む。「あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、引き返してきて、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない。」(王上13:21-22)
 神の人はベテルの老預言者の許を発った。が、途中、一頭の獅子に殺されて亡骸は道端へ打ち捨てられたまま。主の言葉通りの結末であった。老預言者はその終焉の地に赴き、獅子によってもロバによっても喰われず引き裂かれずにあった神の人の遺体を持ち帰り、丁重に葬った。
 神の人シェマヤの埋葬を済ませると、老預言者は息子たちに斯くいった、━━
 「わたしが死んだら神の人を葬った墓にわたしを葬り、あの人の骨のそばにわたしの骨を納めてくれ。あの人が、主の言葉に従ってベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだ。」(王上13:31-32)

 が、しかし、━━
 「この出来事の後も、ヤロブアムは悪の道を離れて立ち帰ることがなく、繰り返し民の中から一部の者を聖なる高台の祭司に任じた。志望する者はだれでも聖別して、聖なる高台の祭司にした。ここにヤロブアムの家の罪があり、その家は地の面から滅ぼし去られることとなった。」(王上13:33-34)


 「?」と思うのです、なぜ老預言者に主の怒りは降(くだ)らなかったのか、と。
 ヤロブアムさえ無理強いしなかった神の人シェマヤを引き留めた罪はお咎めなしとする程、シェマヤ自身に与えられていた主の言葉よりも軽かったのか、と。これまで旧約聖書を読んできて、この箇所は大いに疑問符を抱くことになった部分です。
 さりながら、その老預言者の遺言の最後━━「呼びかけた言葉は、必ず成就する」とは、なんと力強く震えあがらされることでしょうか。斯くも内面の力にあふれた言葉をいった人物は、主を別にすればそうそう居なかった、と思います。

 そして、ヤロブアム。無理強いすることなく神の人を帰したあたりで、それ相応の分別はあるかと思いきや、それでもなお祭壇にのぼって香を焚き、レビ人以外の者を祭司に任命して主の掟に背く行為を行う、このアムビバレンツ。
 ひとたび悪の慣習に染まった者は、決して再び<善>の側に立ち帰ることはできない、という不文律の表れなのでしょうか。本当にそうなのでしょうか、悔い改めることはできないのでしょうか。改心し、償いを伴う<真面目>は、あり得ないのでしょうか? 自身の経験を踏まえていうなら、断じて「否」なのですけれど……。これが洋の東西、古今を問わず、身分の貴賤を問わぬ、普遍的な有り様というなら、あまりにも悲しすぎることだと思います。それは決めつけに過ぎず、他者を深く傷つける偏見でしかないのに。
 人はやり直せる、と、みんなが知ってほしいと思います。
 ヤロブアムの罪はあまりに重い。主の怒りがくだり、呪いの対象となっても宜なるかな。がしかし、斯く思う自分がある以上、ヤロブアムを単純に<悪>と断じる真似は、どうしてもできないのであります。



 雨のなか、例のスターバックスで本を読み、小説と久々のCDレヴューを書きました。◆

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