第0384日目 〈列王記上第17章:〈預言者エリヤ、干ばつを預言する〉〉 [列王記・上]

 列王記上第17章です。

 王上17:1-24〈預言者エリヤ、干ばつを預言する〉
 乱れたままのイスラエルにしびれを切らし、主はアハブ王の許へギレアド住民で預言者、ティシュベ人エリヤを遣わした。エリヤは王に、自分が告げるまでの数年間、露が降りることも雨が降ることもないだろう、と告げた。
 主の言葉に従いエリヤはサマリアをあとにし、東へ流れた。ヨルダンの東岸ケリト(※1)の川のほとりに留まり、シドンのサレプタ(※2)に暮らした。
 サレプタの地でエリヤは一人の女やもめの家に身を寄せた。貧しくパンにも事欠く状況だったが主の恵みにより、壺の粉も瓶の油も尽きることはなかった。
 その後、女やもめの息子が病によって身罷った。彼女はエリヤに噛みつき(「あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」王上17:18)、預言者は遺体を抱いて階上の部屋の寝台に横たえた。
 エリヤは主に訴えた、「あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」(王上17:20)と。そして、亡骸の上に3度身を重ねて(※3)、願った、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」(王上17:21)
 主はエリヤの祈りに耳を傾け、子供の命を元に返した。エリヤは階上の部屋から降りてきて、母親に息子を返した。
 女やもめ/母親はエリヤにいった、━━
 「今わたしはわかりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(王上17:24)

 まず思うのは新共同訳に於けるこの章の小見出しの付け方の不適切さです。この訳文を作成する際カトリックとプロテスタントの間で如何なる制約があったのか知りませんが、第17章は前半〈預言者エリヤ、干ばつを預言する〉と後半〈エリヤ、やもめの息子を生き返らせる〉(試案)に分けた方がよかったのでは、と小首を傾げた箇所でありました。

 さて、補注です。
 ※1「ヨルダンの東岸ケリトの川のほとり」→「ケリトの川」はヨルダン川東岸にあってヨルダン川に至る、預言者エリヤの出身地ティシュベ南方を流れる河川。
 岩波訳では「ヨルダンを見下ろすケリト涸谷に身を隠し」云々。ケリトは涸れ谷でありそこを水がわずかに流れる。ゆえに旱魃が続くと涸れてしまう、という含みか。
 また、それはヨルダン川東岸のワディ・ヤビス(「乾燥しきった涸谷」の意)か、或いはヨルダン川西岸もしくはユダの荒れ野北部をエリコに向かう途上にあるワディ・ケルトである、とする(岩波Ⅵ『列王記』当該補注、ティンデル:ワイズマン『列王記』P191-2)。

 ※2「シドンのサレプタ」→フェニキア領シドンの町の南約13㎞に位置する、現在のサラファンド。「(サレプタは北王国イスラエルの王)アハブの義理の父が支配していたフェニキヤの領地にあった。エリヤは適地に赴き、バアルが崇められている(尤も旱魃でご利益はなかったが)地域で、神の力を示したのである。彼は、預言者が自分の国の外で受け入れられ得るということの例示である」(ティンデル:ワイズマン『列王記』P193)

 ※3「亡骸の上に3度身を重ねて」→3度、という行為に意味はあるのか? 不勉強ゆえさんさんかはわかりません。なお、列王記下4:34では「そしてエリヤは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。」とあります。




 休みで家内(「妻」の意味ではない!)に所用あり山下公園近くの某所へ。
 済ませてからマリンタワーへ、記憶にある限りでは始めて初めて登りました。いやぁ、晴れていたせいもあるが、「絶景かな、絶景かな」と叫びたい程。海中を優雅に漂うクラゲの姿が印象的。
 そうか俺が暮らしている街はこういう街か、ふだん散歩していても上から見るとまた違った魅力が味わえていいな、とつくづく感じ入ったことであります。◆

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