第0385日目 〈列王記上第18章:〈エリヤとバアルの預言者〉&〈干ばつの終わり〉、シューベルト〉 [列王記・上]

 列王記上第18章です。

 王上18:1-40〈エリヤとバアルの預言者〉
 それから3年が経った。主の言葉がエリヤに臨み、エリヤはアハブに会うため出立した。
 サマリアはひどい飢饉に見舞われていた。アハブは水のある場所を探しに、国中に人を派遣していた。宮廷長オバドヤもその一人だった。彼は道の途中で預言者エリヤに会った。
 エリヤがここにいると王に知らせてほしい、とエリヤはいった。渋るオバドヤにエリヤは重ねていった、今日わたしはアハブの前に姿を現す、と。オバドヤはエリヤの言葉に従い、王に知らせた。
 預言者エリヤとアハブ王は3年ぶりに顔を合わせると、互いをイスラエルに災いをもたらしたと応報した。エリヤは王にいった、バアルとアシェラの預言者850人とすべてのイスラエルの民を、カルメル山に集めるよう使者を送っていただきたい、と。
 使者は北王国イスラエルを走り、皆がカルメル山に集まった。エリヤはバアルの預言者450人に、祭壇で献げ物をささげ、汝らの神に祈り、焼き尽くす火があがるか見よ、といった。「火をもって答える神こそ神であるはずだ。」(王上18:24)
 が、バアルの神はなにも答えなかった。
 エリヤはヤコブの部族の数に従って12の石を取り、主の祭壇を築き直し、周囲に溝を掘り、切り裂いた雄牛を薪に横たえ、その上から水を溝に流れるまで注いだ。そうしてエリヤは祈った、━━
 「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」(王上18:36-37)
 イスラエルの神、主は答えた。
 民はひれ伏し、エリヤの命令に従ってバアルとシェラの預言者たちを捕らえてキション川へ連れていって、そこで殺した。

 王上18:41-46〈干ばつの終わり〉
 預言者エリヤはアハブ王を王都サマリアへ帰した。
 エリヤは従者を連れてカルメル山頂に登り、海の方を向いてうずくまった。
 7度祈りを捧げると、海の彼方から小さな雲がのぼってきた。
 空は厚い雲に覆われ、激しい風雨をもたらした。大地は水に満たされ潤い、干ばつの季節は終わりを告げた。
 「主の御手がエリヤの臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。」(王上18:46)



 昨今CDやDVDを購入するペースがめっきり落ちたのだけれど、今日はストラヴィンスキーの自作自演録音のセットとシューベルトを2枚買ってきました。前者はエッセイの仕込み用に、後者はものすっごく聴きたかったから。
 シューベルトはピアノ・ソナタと弦楽四重奏曲を1枚ずつ。演奏家は触れずにおくとして、まずピアノ・ソナタを聴いています(何十編も反復して聴き倒すのだ)。すると、ふーっ、と一つのイメージがどこからともなくやって来て、シューベルトの音楽をモティーフにしたラジオ・ドラマを書きたい、そう強い願いが生まれました。
 これを書きます。実際着手するのは来年だろうけれど、採用目的でなく自分のためにだけ書く作品だろうけれど、音になるにしても限りなく宅録に近い形になるだろうけれど、想いを純化し凝固させて記憶と記録に留めたい。あの人がこれを聴いてくれれば、いちばんうれしいのだけれど。
 モティーフがシューベルトという時点で、想いの対象は明確だろうけれど。
 大好きです。記憶を風化させず、いつまでも新鮮な声と姿とあなた自身を感じていたい。
 「フランツ・シューベルト。誰だったのだろう、あの作曲家は。何だったのだろう、あの音楽は。」(前田昭雄『シューベルト』P11 新潮文庫「カラー版作曲家の生涯」より)
 誰だったのか? なんだったのか? ━━我らを出逢わせた。

 「道ばたに立つ一本の道しるべは
  町の方向をさしている。
  それなのにわたしは、はてもなくさすらう
  憩いなく 憩いを求めて

  道ばたに立つ一本の道しるべを
  わたしは目の前にありありと見る
  わたしがこれから歩む道は
  だれも帰ってきたことのない道なのだ」
(フランク・ミュラー『冬の旅』より「道しるべ」)◆

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