第0418日目 〈列王記下第14章:〈ユダの王アマツヤ〉、〈アマツヤとヨアシュの戦い〉他〉 [列王記・下]
列王記下第14章です。
王下14:1-7〈ユダの王アマツヤ〉
北王国イスラエルがヨアシュ王第2年に、南王国ユダの王に即位したのはアマツヤである。25歳で王となった彼の御代は、王都エルサレムにて29年続いた。母はエルサレム出身のヨアダン。
彼は(父祖ダビデ程ではないが)主の目に正しく映ることをした。が、聖なる高台は取り除かなかった。
アマツヤは父ヨアシュ前王を謀殺した2人の家臣を打ち殺した。しかし、『モーセの律法の書』(※1)に従い、その子供たちの命までは奪わなかった。律法の書に於いて、主はこう定める、━━
「父はこのゆえに定められず、子は父のゆえに定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」(王下14:6)
また、アマツヤ王は10,000人のエドム人を塩の谷で討ち、その町セラを攻め落としてヨクエテルと改名させた。今日に至るまでそれは同じだ。
王下14:8-22〈アマツヤとヨアシュの戦い〉
南王国ユダの王アマツヤはエドムを破った余勢を駆って、北王国イスラエルの王ヨアシュへ戦いを挑んだ。イスラエルはこれを諫めたが効果はなく、結局、ユダの領内ベト・シェメシュで剣を交えることとなった。
戦果はイスラエルの勝利、ユダの惨敗に終わり、ユダ王アマツヤは捕らえられた。エルサレムに北王国の軍勢が入城した。エルサレムの城壁はエフライムの門から角の門まで400アンマ(約180メートル)に渡って破壊され、エルサレムに貯えられていた金や銀、祭具が人質と共にサマリアへ運ばれた。
捕虜となって王都へ帰還したアマツヤに対して謀反が企てられた(※2)。王は逃亡先のラキシュで殺され、遺体はエルサレムに運ばれた。
遺体は“ダビデの町”シオンへ埋葬され、民はその子アザルヤを次王に選んだ。
アマツヤの事績は『ユダの王の歴代誌』に記されている。
王下14:23-29〈イスラエルの王ヤロブアム2世〉
南王国ユダがアマツヤ王第15年に、北王国イスラエルの王に即位したのはヤロブアムである。ここでは特に“2世”と断る。御代は王都サマリアにて41年続いた。
彼も主の目に悪と映ることを行い、ネバトの子ヤロブアム(1世)の罪から離れなかった。
が、ヤロブアム2世の時代、主は預言者ヨナ(アミタイの子)を通して、いまは失われたイスラエル領、即ちレボ・ハマトからアラバの海までの地域(※3)の回復を告げ、その通りとなった。
「つながれている者も解き放たれている者もいなかった。しかし、主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。」(王下14:26-27)
またヤロブアム2世の時代、イスラエルはユダに支配されていたダマスコとハマトを取り戻した。
ヤロブアム2世の事績と功績、行ったすべてのことは『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。
崩御しては“ダビデの町”シオンへ埋葬され、その子ゼカルヤが次王となった。
※1『モーセの律法の書』:創世記から申命記までの<モーセ五書>、即ち「律法」である。件の文言は申24:16にある。
※2「謀反が企てられた」:捕虜となって王都へ帰還した王アマツヤ。それを見た家臣や民はどう思ったろうか。主君の首をすげ替える方向へ傾くのは是非ないことだろう。となれば謀反の動機は明らかである。その私見に基づき、ノートを作成した。
岩波6『列王記』当該脚注で「動機も明らかではない」とするが、あまりに貧弱かつ消極的な意見だ。歴史書の空隙を埋めるための想像力が枯渇していれば、こんな意見を堂々と活字に残す愚も許されようか。
※3「レボ・ハマトからアラバの海までの地域」:ヨルダン川東岸一帯、即ち、王下10:32-33にてアラムによって侵略された地域を指す。レボ・ハマトはレバノン谷にある町、アラバの海は「塩の海」、現在の死海である。アモス書6:14でも触れられる箇所。
来年2月にアリーナ・ディ・ヴェローナが来日、伝家の宝刀ヴェルディ《アイーダ》を上演します。
指揮はドミンゴ。外題役、エジプトの捕囚にしてエチオピア王妃アイーダを歌うはダニエラ・デッシー、ライヴァルのエジプト王妃アムネリスにロッサーナ・リナルディ。そしてラダメスに扮して朗々とアリア「清きアイーダ」を聴かせてくれるのは、おお、ファビオ・アルミリアート!
う~、た、楽しみだあっ。前日にはドミンゴのオペラ・ガラもあるしねぇ~。
なんとかしてチケットを……。前日のガラと合わせて何万飛ぶのか━━。でも、いい。最高のスタッフとキャストで、最高のオペラを堪能するのだ、そして、夢の時間を過ごすのだ。これが一万円札数枚で我が手にできる恍惚の時間なら、そう滅多にあるものでもないのだ、これを限りと贅沢しまっせ!◆
王下14:1-7〈ユダの王アマツヤ〉
北王国イスラエルがヨアシュ王第2年に、南王国ユダの王に即位したのはアマツヤである。25歳で王となった彼の御代は、王都エルサレムにて29年続いた。母はエルサレム出身のヨアダン。
彼は(父祖ダビデ程ではないが)主の目に正しく映ることをした。が、聖なる高台は取り除かなかった。
アマツヤは父ヨアシュ前王を謀殺した2人の家臣を打ち殺した。しかし、『モーセの律法の書』(※1)に従い、その子供たちの命までは奪わなかった。律法の書に於いて、主はこう定める、━━
「父はこのゆえに定められず、子は父のゆえに定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」(王下14:6)
また、アマツヤ王は10,000人のエドム人を塩の谷で討ち、その町セラを攻め落としてヨクエテルと改名させた。今日に至るまでそれは同じだ。
王下14:8-22〈アマツヤとヨアシュの戦い〉
南王国ユダの王アマツヤはエドムを破った余勢を駆って、北王国イスラエルの王ヨアシュへ戦いを挑んだ。イスラエルはこれを諫めたが効果はなく、結局、ユダの領内ベト・シェメシュで剣を交えることとなった。
戦果はイスラエルの勝利、ユダの惨敗に終わり、ユダ王アマツヤは捕らえられた。エルサレムに北王国の軍勢が入城した。エルサレムの城壁はエフライムの門から角の門まで400アンマ(約180メートル)に渡って破壊され、エルサレムに貯えられていた金や銀、祭具が人質と共にサマリアへ運ばれた。
捕虜となって王都へ帰還したアマツヤに対して謀反が企てられた(※2)。王は逃亡先のラキシュで殺され、遺体はエルサレムに運ばれた。
遺体は“ダビデの町”シオンへ埋葬され、民はその子アザルヤを次王に選んだ。
アマツヤの事績は『ユダの王の歴代誌』に記されている。
王下14:23-29〈イスラエルの王ヤロブアム2世〉
南王国ユダがアマツヤ王第15年に、北王国イスラエルの王に即位したのはヤロブアムである。ここでは特に“2世”と断る。御代は王都サマリアにて41年続いた。
彼も主の目に悪と映ることを行い、ネバトの子ヤロブアム(1世)の罪から離れなかった。
が、ヤロブアム2世の時代、主は預言者ヨナ(アミタイの子)を通して、いまは失われたイスラエル領、即ちレボ・ハマトからアラバの海までの地域(※3)の回復を告げ、その通りとなった。
「つながれている者も解き放たれている者もいなかった。しかし、主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。」(王下14:26-27)
またヤロブアム2世の時代、イスラエルはユダに支配されていたダマスコとハマトを取り戻した。
ヤロブアム2世の事績と功績、行ったすべてのことは『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。
崩御しては“ダビデの町”シオンへ埋葬され、その子ゼカルヤが次王となった。
※1『モーセの律法の書』:創世記から申命記までの<モーセ五書>、即ち「律法」である。件の文言は申24:16にある。
※2「謀反が企てられた」:捕虜となって王都へ帰還した王アマツヤ。それを見た家臣や民はどう思ったろうか。主君の首をすげ替える方向へ傾くのは是非ないことだろう。となれば謀反の動機は明らかである。その私見に基づき、ノートを作成した。
岩波6『列王記』当該脚注で「動機も明らかではない」とするが、あまりに貧弱かつ消極的な意見だ。歴史書の空隙を埋めるための想像力が枯渇していれば、こんな意見を堂々と活字に残す愚も許されようか。
※3「レボ・ハマトからアラバの海までの地域」:ヨルダン川東岸一帯、即ち、王下10:32-33にてアラムによって侵略された地域を指す。レボ・ハマトはレバノン谷にある町、アラバの海は「塩の海」、現在の死海である。アモス書6:14でも触れられる箇所。
来年2月にアリーナ・ディ・ヴェローナが来日、伝家の宝刀ヴェルディ《アイーダ》を上演します。
指揮はドミンゴ。外題役、エジプトの捕囚にしてエチオピア王妃アイーダを歌うはダニエラ・デッシー、ライヴァルのエジプト王妃アムネリスにロッサーナ・リナルディ。そしてラダメスに扮して朗々とアリア「清きアイーダ」を聴かせてくれるのは、おお、ファビオ・アルミリアート!
う~、た、楽しみだあっ。前日にはドミンゴのオペラ・ガラもあるしねぇ~。
なんとかしてチケットを……。前日のガラと合わせて何万飛ぶのか━━。でも、いい。最高のスタッフとキャストで、最高のオペラを堪能するのだ、そして、夢の時間を過ごすのだ。これが一万円札数枚で我が手にできる恍惚の時間なら、そう滅多にあるものでもないのだ、これを限りと贅沢しまっせ!◆
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