第0419日目 〈列王記下第15章:〈ユダの王アザルヤ〉、〈イスラエルの王ゼカルヤ〉他withそのとき安堵したのは、なぜだったのか?〉 [列王記・下]

 列王記下第15章です。

 王下15:1-7〈ユダの王アザルヤ〉
 北王国ユダがヤロブアム2世王第27年に、南王国ユダの王に即位したのはアザルヤである。アザルヤは「ウジヤ」という別称を持つ。16歳で王となった彼の御代は、王都エルサレムにて52年続いた。母はエルサレム出身のエゴルヤ。
 彼は主の目に正しいと映ることをことごとく行ったが、聖なる高台は取り除かなかった。
 そこで主は王を打った。王は重い皮膚病にかかり、死ぬまで隔離された。王の代行を務めたのは王子ヨタムである。
 アザルヤの事績、行ったすべてのことは『ユダの王の歴代誌』に記されている。
 崩御しては“ダビデの町”シオンへ埋葬され、その子ヨタムが次王となった。

 王下15:8-12〈イスラエルの王ゼカルヤ〉
 南王国ユダがアザルヤ王第38年に、北王国イスラエルの王に即位したのはゼカルヤである。その御代は王都サマリアにて6ヶ月続いた。
 彼は主の目に悪とされることをことごとく行い、ネバトの子ヤロブアムの罪から離れなかった。
 家臣シャルムの謀反により王は死に、イエフの血筋はここに途絶えた。イエフ王朝の終焉である。主がかつてイエフに告げた如くとなった(王下10:30)。
 ゼカルヤの事績は『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。

 王下15:13-16〈イスラエルの王シャルム〉
 南王国ユダがアザルヤ王第39年に、北王国イスラエルの王に即位したのはシャルムである。その御代は王都サマリアにて1ヶ月続いた。
 ガド人メナヘムが旧王都、エフライム山中のティルツァから軍勢を進め、現王都サマリアを攻めた。彼らの手にかかってシャルム王は打ち殺された。メナヘムが新しい王となった。
 メナヘムはティフサ(※1)をも攻め、これを落とした。

 王下15:17-22〈イスラエルの王メナヘム〉
 南王国ユダがアザルヤ王第39年に、北王国イスラエルの王に即位したのはメナヘムである。御代は王都サマリアにて10年続いた。
 彼も主の目に悪と映ることを行い、ネバトの子ヤロブアムの罪を犯し続けた。
 このメナヘム王の時代、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(別に「プル」とも称される)がイスラエルを攻めた。メナヘムは、全イスラエルの有力者から銀50シェケルずつ徴収し、総額10,000キカルををアッシリア王へ貢いだ。アッシリアの力で以てイスラエルの国力を強化させる狙いだった(※2)。アッシリア軍はイスラエルから撤退した。
 メナヘムの事績は『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。
 崩御しては埋葬され、その子ペカフヤが次王となった。

 王下15:23-26〈イスラエルの王ペカフヤ〉
 南王国ユダがアザルヤ王第50年に、北王国イスラエルの王に即位したのはペカフヤである。御代は王都サマリアにて2年続いた。
 彼も主の目に悪と映ることを行い、ネバトの子ヤロブアムの罪から離れなかった。
 在位の終盤、家臣のペカが謀反を起こした。ペカはギレアド人らと組み、王宮内にて王を謀殺した。ペカが新しい王となった。
 ペカフヤの事績、行ったすべてのことは『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。

 王下15:27-31〈イスラエルの王ペカ〉
 南王国ユダがアザルヤ王第52年に、北王国イスラエルの王に即位したのはペカである。御代は王都サマリアにて20年続いた。
 彼も主の目に悪と映ることを行い、ネバトの子ヤロブアムの罪から離れなかった。
 このペカ王の時代、再びアッシリアの王プル、即ちティグラト・ピレセル3世がイスラエルを攻め、北王国の北方、ほぼ全領土を占領した。住民は捕囚となり、アッシリアへ連行されていった(※3)。
 家臣エラの子ホシェアが王への謀反を企てた。彼はペカ王を殺め、新王に就いた。これは、南王国ユダではウジヤ王第20年の出来事であった。
 ペカの事績は『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。

 王下15:32-38〈ユダの王ヨタム〉
 北王国イスラエルがペカ王第2年に、南王国ユダの王に即位したのはヨタムである。25歳で王となった彼の御代は、王都エルサレムにて16年続いた。父はアザルヤ(ウジヤ)王、母はツァドクの娘エルシャ。
 彼は主の目に正しいと映ることをことごとく行ったが、聖なる高台は取り除かなかった。王は主の神殿の上の門を建てた(※4)。
 また、主はこのヨタム王の時代、イスラエル王ペカとアラム王レツィンをユダに差し向け、攻めさせたのである。
 ヨタム王の事績、行ったことは『ユダの王の歴代誌』に記されている。
 崩御しては“ダビデの町”シオンへ埋葬され、その子アハズが次王となった。

 単純な記述が長々と続いた第15章、ここまでお読みいただきありがとうございました。
 それでは、補注です。ごめんなさい、これも、まぁちょっとだけ、長いです。
 ※1「ティフサ」→旧王都ティルツァと現王都サマリアの間にある町で、ティルツァの西約14キロに位置。ガト人メナヘムはエフライム山中の旧王都を発つと、まずこのティフサを落とした。ここで侵攻の足がかりを摑んで、王都サマリアへ攻め上ったのです。
 ※2「イスラエルの国力を強化」云々→北王国の王メナヘムに限らずイスラエル周辺諸国の王位簒奪者はアッシリアを後ろ盾に利用した、と岩波Ⅵ『列王記』脚注は指摘します(P224-5)。大なり小なりいまの世の中でもありますよね、国の内外を問わず。
 ※3「住民は捕囚となり、アッシリアへ連行されていった」→記述と併せて地図で確認すると、アッシリアの占領地域は非常に広大であることがわかります。「アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し」(王下15:29)たアッシリアはそこの住民を捕虜として連行、アッシリアの諸地域に分散させて、<主の民>という共同体意識を剥奪したのでした。
 ※4「主の神殿の上の門を建てた」→上の門がなにを指すのか、よくわかりません。



 先日『爆笑問題のニッポンの教養』を観ていて、長年の疑問が解決しました。太田が再た、20年以上もわだかまっていた疑問に解決の光を当ててくれた。
 婚約者が死んだあと胸のなかに生まれ、感じた安堵はいったいなんであったのか?
 否、と番組を観て納得がいった。
 ……不安が取り除かれただけなのだ。病に倒れ、病室で辛うじて息をしていた彼女、心臓は脈打ち脳もまだ活動している。が、いつそれに終止符が打たれるかは(その時点では)神のみぞ知る未来。わたくしはまだ訪れぬ未来に不安を抱き、恐怖していたのだった。
 やがてあの朝、彼女は逝った。静かに逝った。逝ってしまった、という悲しみが胸にあふれた。もう彼女が生きて目を開けることはなく、我らの未来は永劫に封印された。
 が、それは一方で、もう終わった……もう彼女がいつ死ぬか知れないという恐れから、不安から━━誰しもが解放された、むろんわたくしも。一寸先もわからぬ、闇のなかの未来(すぐあとには現実となりこの瞬間となる未来)はわたくしたちの前に突きつけられて、終わった。彼女はこの世にない。
 怯えや不安から離別したゆえの安堵だった、と20年以上をかけてようやく納得できた。◆

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