第0427日目 〈列王記下第20章:〈ヒゼキヤ王の病気〉、〈バビロンからの見舞い客〉〉 [列王記・下]

 列王記下第20章です。

 王下20:1-11〈ヒゼキヤ王の病気〉
 ヒゼキヤ王は死の病を患った。預言者イザヤから余命幾ばくもないことを知らされた王は、主に願い、泣いた。「わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」(王下20:3)
 王の許を辞した預言者が王宮の中庭を歩いていると、主の言葉がイザヤに臨んだ。彼は王の枕辺に引き返してそれを告げた。
 主はこう仰いました、とイザヤはいった、━━
 「わたしはあなたの祈りの言葉を聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。」(王下20:5-6)
 集めさせた干し無花果を患部に当てると、王は病から回復した。
 王は預言者に訊ねた、三日目に主の神殿に上れることを示すしるしとは、いったいなんでしょう、と。
 イザヤはヒゼキヤにいった、日時計の影が十度進むか、十度戻るかである、と。
 王は預言者に答えた、影が十度進むのは容易いこと(当たり前のこと=自然の摂理)、むしろ日時計の影を十度戻してほしい、と。
 「そこで預言者イザヤが主に祈ると、主は日時計の影、アハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせられた。」(王下20:11)

 【さんさんかメモ】
 我らはかつて散々目の当たりにしてきた<主の奇蹟>━━科学の時代に生きる我らにいわせれば、超常現象並みの現象ではあったが━━について、若干なりとも鈍くなっていたようです。
 創世記や出エジプト記で揮われ、民を導き、討ったあの<力>の数々に較べれば、ここで見る日時計の影を十度戻して(=時間を逆回りさせて)人間の寿命を延ばすことなぞ、笑ってしまう程小さな業でしかないでしょう。


 王下20:12-21〈バビロンからの見舞い客〉
 ユダの王が臥せっていると聞いて、バビロン王バアルダンの息子メロダク・バアルダンはユダに使節を遣わした。手紙と見舞い品を携えさせて。
 この温情にヒゼキヤ王は感謝した。そこで王宮のなか、国のなかをあまねく案内した。バビロンからの使節は帰っていった。
 イザヤは王から、王宮のなか━━宝物庫や武器庫、倉庫のなかまでバビロンの使節を案内した、と聞くと、なんと馬鹿なことを、と嘆息した。
 嗚呼、王よ、主の言葉を聞きなさい、と預言者はいった、━━
 「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主はいわれる。あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされるものもある。」(王下20:17-18)
 それでも王は、自分の存命中は国は安泰で時は平穏である、と信じていた。だから、預言者からの言葉も「ありがたいものだ」、と思う程度であった。

 ヒゼキヤ王の事績、すべての行ったこと、例えば貯水池と水道を造り整備して都に水を引いたことなどは、『ユダの王の歴代誌』に記されている。
 崩御しては“ダビデの町”シオンへ埋葬され、その子マナセが次王となった。

 【さんさんかメモ】
 使節を案内してまわった、というのは、ヒゼキヤがすっかり舞いあがって有頂天になり考えもなく案内した、と捉えがちですが、そうではないのかもしれません。
 ユダの王バビロンが同盟関係にあったら、見舞いの使節の派遣も国内の案内も当然の儀礼である、とは考えられないでしょうか。モノの本でどう解釈されているかは存じませんが、少なくともわたくしはそう解釈した者であります。
 この場面を読んでいて最初に思い浮かんだ絵は、広野をかけずり回るパタリロと必死についてゆくバンコランの姿でした……すみません、おいらは不信心者です。
 また、さらりと触れられるに留まっていますが、郊外に貯水池を造り水道を都へ引いた、というのは生命線の確保につながる工事であり、多大な労力と緻密な計画を必要とする以上、王の強大な権力なくしては実行できない、とんでもない一大事業であったことを我らは肝に銘じておくべきです。
 民の信仰をイスラエルの神、主に戻したというのに匹敵するヒゼキヤ王の業績といえましょう。




 ドストエフスキー『白夜』読了。
 こんな短い一冊を苦痛を以て巻を閉じるなんて、読み始めた当初は考えもしなかった! むくつけき怒りがむらむらと湧きあがり、はらわたがぐらぐらと煮えくり返る、そんな思いすら!
 まったく、どの面さげてそんな台詞を吐くか、ナースチェンカよっ!? 「どうかわたしをお責めにならないでください、だってわたしはあなたを裏切るような真似はなにひとつしなかったのですもの。わたしはあなたを愛しつづけると申しました。いまでもあなたを愛しております。いえ、愛しているなどというなまやさしいものではありません。ああ! あなたがたお二人を同時に愛することができたならば! ああ、もしもあなたがあの人だったならば!」(P111)
 おい、いい加減にしろ、ナースチェンカ! ━━最後の最後でツッコミどころ満載の、愛についてチョージコチューなる者!
 この見下げ果てた小説を価値あるものと為さしめる救いは、<白夜>の醸す幻想的なメランコリックな雰囲気の演出と、最後の、あはれ哀しき恋の道化を演じ給うた主人公の独白である:ex;P114L3-115L3,殊にP114L10-最終行まで。
 ドストエフスキーの翻訳されて文庫で読めるなかでは、おそらくもっとも出会う(読む)年代を選ぶ小説である、といえましょう。◆

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