第0637日目 〈ヨブ記第16章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉2/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第16章です。

 ヨブ16:1-22〈ヨブと三人の友の議論 二〉2/7
 ヨブは答えた、━━遠方より来たるわが3人の友よ、君たちの慰めはまやかしにすぎない。もうやめてくれ、もし逆の立場なら、わたしは君たちに偽りの慰めや励ましなど与えはしない。

 平穏に暮らしていた私を神は打ち、敵の手に渡した。彼らは私を嘲笑して侮辱し、情け容赦なく私を射て塵のなかに倒れさせる。
 なぜだ?
 なぜこんなことがわが身に降りかかるのか。「わたしの手には不法もなく/わたしの祈りは清かったのに。」(ヨブ16:17)

 大地よ、流れた血を土で覆うな(ex;創4:10)。わが叫びは逃れ場を求めるな。
 天にいる仲裁者。彼が私と神の間に立ち、私のために弁護して執り成してくれるように。
 「僅かな年月がたてば/私は帰らぬ旅路に就くのだから。」(ヨブ16:22)



 参考にしている『旧約聖書 Ⅳ・諸書』(岩波書店)の当該箇所註釈の表現を借りれば、本章では、ヨブのいう<神>が「敵なる神」と「友なる神」に分裂している(殊に16:19-21)。これはヨブの神に寄せる想いの迷いでありましょうか。
 ヨブ16:21「人とその友の間を裁くように」云々の「人」はヨブを、「その友」はヨブの神を意味します。が、実はここの新共同訳の訳文には若干の疑問があるのです。文章が前節の流れから浮いてしまい、ともすれば分断してしてしまっているような気がするのですね。参考図書の岩波書店版『ヨブ記』(前掲書含む)や岩波文庫の関根正雄訳の方が、より性格かつ自然な日本語文章と思えるのであります。



 偶然CSで映画『ストリート・オブ・ファイヤー』を観ました。10代の時に観て感化された、ダントツで好きな映画作品。本作には影響を受けたなぁ。筋は単純明快、古くさいお姫様救出劇なんだけれど、騎士然としていないマイケル・ペレが相当カッコイイんだ。
 1980年代って、現代と較べればザラリとした手触りかもしれないけれど、とってもいい映画が揃っていた。名画座や二番館、三番館、時にはアートシアター系列の劇場を渡り歩いて、ひっそりと息を潜めてわからないながらも観ていた文芸作品、生まれる以前の名作や西部劇。
 足とカンと暇に任せて観た作品群は、大切な思い出で、宝物です。映画大好き。◆
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