第0659日目 〈ヨブ記第37章:〈エリフの言葉〉6/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第37章です。

 ヨブ37:1-24〈エリフの言葉〉6/6
 神は雲、殊に雨雲という形で、われらの前に顕現する。モーセが造った臨在の幕屋に現れたときからそうだった。雨雲は稲妻を放ち、雷鳴を轟かせる。それは、神の声の響き。かの雨雲は雨と雪を降らせ、暴風(あらし)を送り出す。「懲らしめのためにも、大地のためにも/そして恵みを与えるためにも/神はこれを行わせられる。」(ヨブ37:13)

 神を前にしたわれらになにができようか。暗黒を前にしたわれらがどう申し立てできようか。神の前では、われらの言葉も言葉とならず、どう論戦したところで神に勝つことはできぬだろう。
 「今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。/やがて風が吹き、雲を払うと/北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。
 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。/神は優れた力をもって治められる。/憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。/それゆえ、人は神を畏れ敬う。/人の知恵はすべて顧みるに値しない。」(ヨブ37:21-24)



 正直なところを告白しますと、今回のものは、これまで自分が自身のために作成してきたノート、それに伴い手を加えて公開してきたブログのなかで、いちばん自信なく、出来映えを不満に思う一つ、否、内でも最右翼というてよい程であります。手直しをしようとも、さて、どこに手を着けたらよいのかわからず、さりながら一応は形になっておりますゆえ、予定通り公開する次第です。
 世人がどういおうと、少なくともわたくしは、これの出来の前では恥ずかしくて顔をあげられぬ気持ちでいることも、一緒に述べておきたく思います。もっとも、テクストの読みこみがじゅうぶんでなかったからだ、と誹られれば返す言葉もないのですが。
 なお、倩読んでいて、引用したヨブ37:21-22で脳裏に響いた音楽は、ワーグナー《ラインの黄金》からヴァルハラへの神々の入城の音楽でした。うむ、単純な連想ですな。
 追伸めきますが、順調に進めば「ヨブ記」は来週いっぱいで読了する。できれば終わってからもう一度、最初から一気に読み直してみたいとさえ望んでおります。無論、それがブログ上にて再度反映される、というわけではございませんが。いずれにせよ、しばし間を置いてから、聖書読書ノートはいよいよ「詩編」へ入ります。おそらく9月頃でしょう。



 太宰の『惜別』もラストに近い。いま時点で感想をまとめるのは困難だが、どうにものめり込めぬ久々の太宰作品である。少なくとも読書の酩酊を堪能させるものではない。でも、藤野先生の描かれ方はなんだか好きだな。◆

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