第0751日目 〈詩編第059篇:〈わたしの神よ、わたしを敵から助け出し〉〉 [詩編]

 詩編第59篇です。

 詩59:1-18〈わたしの神よ、わたしを敵から助け出し〉
 題詞は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。」

 周知の如くサウルとダビデは或る時を境に対立する関係になった。詩59はその初期の出来事を詠った詩である。背景となった挿話には初めて登場する人物もいるので、改めて該当するサム上19:11-17を繙くとしよう。
 ━━サウルに主の悪霊が降ったのである。イスラエルの王はダビデを討たんと行動し、或る晩、彼の家を見張らせた。機に乗じてダビデを亡き者にしようと企てたからだ。それをダビデの妻ミカルが察して夜陰に紛れて夫を逃がした。入れ替わるようにしてサウルの家来たちが見舞いと称してダビデの家に踏みこんだが、そのとき既に彼の姿はどこにもなかった。ダビデはラマの地にいるサムエルの許へ行った。サウルはミカルを詰問したが、彼女はただ、夫に脅されたから逃がしたのだ、と答えるだけだった。━━
 これが詩59の背景である。おそらくこの詩はサムエルのところへ行く途中で詠まれたのではないか。内容はこれまで読んできた詩と大差ない。身も蓋もない言い方だが、事実そうなのだ。敵の手からわたしを救い出し、あなたの御力で敵を倒してください、わたしたち主に従う正しい者はあなたを讃えます。そういう内容である。だが、言葉はなんだかささくれている。“やさぐれている”というた方が相応しいか。やや激烈なのだ。そんな風に感じる。
 顧みれば、詩59はサウルがダビデに対して敵意を抱き、直接的な行動を起こすようになった始めの頃に詠まれた詩である。ダビデにしてみると、主君のなかに潜んだ敵意が実際に目に見える形で己の身に降りかかった、最初の大きな仕打ちである。これは流石に心が痛んだであろう。と同時に、それゆえにこそダビデを襲った悲しみと怒りは、後に覚えたそれらよりも大きかったのであるまいか。裏切られた側の痛みは、わたくしにはよく理解できる。
 この詩の激しさの裏には、信じて疑わなかった者に裏切られた哀しみが隠れていることを、われらは忘れてはならない。

 「目覚めてわたしに向かい、御覧ください。/あなたは主、万軍の主、イスラエルの神。/目を覚まし、国々を罰してください。/悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。/夕べになると彼らは戻ってきて/犬のようにほえ、町を巡ります。/御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。/その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。」(詩59:5-8)

 「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に/自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に/彼らが捕らえられますように。/御怒りによって彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さないでください。」(詩59:13-14)



 充実感と疲労が渾然一体となって、わが身を容赦なく嬲る。嗚呼、書きたいことは多くあるが、明日はせっかくの休みだ。アファナシエフのブラームスを聴きながら、このまま床に入ってぐっすり眠ろう。おぐゆーさん、大好き。雨の音を聞くのも大好き。アレックスに倣って、「♪すっきー、すっきー♪」と歌おう。
 では、また明日。辛い時間があろうとも挫けるな。人の一生は重荷を背負うて遠い道を行くが如し、と家康もいっているではないか。だいじょうぶだ、われらはこの時間、この大地で生きている。◆

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