第0828日目 〈詩編第126篇:〈主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて〉&寝しなの読書・補遺。須賀敦子;『コルシア書店の仲間たち』〉 [詩編]

 詩編第126篇です。

 詩126:1-6〈主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて〉
 題詞は「都に上る歌。」

 彼等は随喜の涙を流し、感涙にむせび、解放と帰還の報に沸き立っただろう。その瞬間の喜びを忘れぬよう━━主が預言者エレミヤの口を通して預言し、ペルシア王キュロスを動かして成就してくれたことへの感謝を忘れぬよう、詠まれた/作られた作物なのだろう。
 70年という安息の期間を得て回復した大地━━父祖の地を再び踏める。それは主が自分たち、シオンの捕らわれ人をエルサレムへ、イスラエルへ連れ帰るのと同義。それがゆえに、「主よ、わたしたちのために/大いなる業を成し遂げてください。/わたしたちは喜び祝うでしょう。」(詩126:3)と、捕囚の身に甘んじていた嗣業の民はあふれんばかりの喜びを歌うたのだ。これを20世紀風に表現すればそのままレイ・ブラッドベリの短編小説のタイトルとなろう。即ち、<歌おう、感電するほどの喜びを!>である。
 第4節の「ネゲブ」はイスラエル南部の砂漠地帯。西端はシナイ半島の砂漠地帯に接する。モーセがヌンの子ホシュア(ヨシュア)らをカナン偵察に出したときのルートにこのネゲブがあり(民13:17,22)、祭司アロンをホル山に埋葬したイスラエルが北上してくるのをネゲブに住むカナン人の王アラドが知った(民33:40。アラドはベエル・シェバ同様に葦の海/死海の西岸にある町だが、このあたりがネゲブ砂漠の北端となる)、とある。
 ちょっと長くなってしまい恐縮だが、実に良い詩なので全文を読んでみてください。特に下へ引く二節には胸を熱くさせられますよ。

 「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩126:5-6)



 これは昨日の補遺でもある。一昨年の初夏の時分か、アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは……』(白水uブックス)を読んだ旨述べたが、その訳者、須賀敦子さんのエッセイが偶々目に付いたのでそれを持って布団に潜りこんだ。
 『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)、須賀さんのエッセイでも特にお奨めな一冊である。これを読むと、失われた<時>と<人>を求めるとき覚えるざらついて乾燥した哀しみと、異国にあって結ばれる細いけれどたしかな<絆>が紡ぐ生活を想う幸福感に包まれる。
 特にわたくしが好きなのは「オリーブ林のなかの家」という、パレスチナ系ユダヤ人アシェルについて書かれた一編だ。ふだんどうやって生活しているのかもわからない、まぁ、ちょっとふしぎ系な彼だが、或る日、同じユダヤ人の女性と結婚するため祖国へ帰り、そこに留まる。やがて離婚し、小説を書いた。一々感想を求められるのに閉口したが、アシェルはそれを書くことで「いちど見えなくなった自分の人生をつかまえようとして、やっきになっていたのだ」(P200)。
 いったい須賀さんの文章は端正で、品がある。これに匹敵する文章の書き手は、存命する著作家のなかにはいないのでないか。この人が書くと、陰影がくっきりとして、どんなに短い作品であろうと非常に奥行きが出て、エッセイを読む愉しみ、文章を味読する愉しみ、そこに描かれた生活の一場面を追体験する愉しみ、が堪能できるのだ。この文章の特質・特徴はそのまま、訳書にも当て嵌められよう。
 現代イタリア文学に開眼させてくれた人として須賀さんはわたくしにとって特別な地位を占める存在だが、その人が多くのエッセイを残してくれたのは幸いな出来事であった。『コルシア書店の仲間たち』を契機に、『トリエステの坂道』(新潮文庫)を読み、『地図のない道』(同)を読んだ。そのたび、非常に心を洗われ、落ち着かされる。心の間隙を埋めて慰撫してくれるような感じだ。
 いまの世に須賀敦子さんという書き手がいないのを本当に淋しく思う。◆

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