第0835日目 〈詩編第133篇:〈見よ、兄弟が共に座っている。〉&ドストエフスキー『白痴』読了。 〉 [詩編]

 詩編第133篇です。

 詩133:1-3〈見よ、兄弟が共に座っている。〉
 題詞は「都に上る歌。ダビデの詩。」

 単純に、というか純粋に兄弟愛を謳うた作物か、と思うたが、そうでもないらしい。これはやはり、イスラエルという嗣業の民が永久(とこしえ)に栄え、恵まれるように、と祈っているのだろう。
 第2-3節(「かぐわしい油が~滴り落ちる」)が比喩であるのは瞭然だけれど、一体どんなことをいうておるのだろう。つまりここは、深遠な時間の流れが悠久の希望となって実を結ぶ、というてあるわけだ。だからこそ、終いの二行の詩句が、どっしりとした重みを持ってくる。そうしてこの短い詩篇を引き締める。
 文字通り、恵みと喜びを謳い、讃えた作物、といえるだろう。

 「シオンで、主は布告された。/祝福と、とこしえの命を。」(詩133:3)



 簡単に、ご報告だけしておきます。昨日の話題とも関連するのですが、否、直結というべきか、とにかく、ご報告申し上げます。ファイナル・カウント・ダウンを昨夜行ったドストエフスキーの『白痴』ですが、本夕にようやく読了することがかないました。
 昨年春に読んだときは相当イライラしながら読み進め、どうにかこうにか最後のページまでたどり着いてそのまま放ったらかした『白痴』。ぼくはいま、そのときの行いを反省しています。併せて思うのは、昨秋から再び読み直すことにして本当に良かったな、ということです。
 深遠さという点では較べるべくもないだろうけれど、前作の『罪と罰』よりもずっと面白く読みました。これは登場人物の多彩さに起因するのかもしれません。あちらはいってみればラスコーリニコフの心情吐露と振り子のような思考の軌跡であったのに対し、こちらは多種再々の人物がムイシュキン公爵を中心に上へ下への大騒ぎを繰り広げる、喜劇の要素を大いに孕んだ小説であるからです。レーベジェフの存在は絶対に欠かせません! そうして、イポリートやブルドフスキー、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチらが花を添えます。いずれの人物も、彼らが中心となる挿話は、それはもう素晴らしく、これだけでじゅうぶん一編の小説となり得ましょう。これらは長編小説のなかで<挿話>が如何に重要なピースとなり、かつ、物語に深みと奥行きを与えるか、の見事な証明といえましょう。
 むろん、作品自体は歴とした恋愛小説━━ドストエフスキー作品中、最高峰というてよい恋愛小説なのですが、ぼくは読みながら、大好きなP.G.ウッドハウスの小説を想起し、なかなかその思いを拭い去ることが出来ませんでした。……ド氏とウッドハウス! ともあれ、ドストエフスキーのユーモア感覚について『白痴』は格好の材料を提供すると共に、作家活動の初期にはユーモア小説を書いていた経験がこれには活かされているようです。
 ナスターシャとアグラーヤ、ロゴージンと公爵(ここにガヴリーラも加えてよろしいでしょうか?)の4人が織りなす恋愛模様が『白痴』の中心構造なのですが、こちらはもう心理小説の領域に入ってきており、丹念にページを読みこみ、登場人物の内面の推移を追ってゆくことが必要となります。面倒臭いといえばそれまでですが、枝葉末節に捕らわれがちなドストエフスキー作品に於いて、それはどうしても必要な作業です。でも、丹念に読みこんだ分、必ず答えてくれる部分があるのも事実で、それは読書のまさしく恩恵というべきものでありましょう。
 ドストエフスキーというと深刻で重い小説を思わず連想しがちで、チェーホフなんかに較べると近寄り難くなっているようですが(数年前の『カラ兄』ブームがあってさえも!)、実はこんなに愉しくて夢中にさせられる小説もあるのです。それが作者の作品中でも随一の恋愛小説とくれば、これはもう読まずに済ますのは本当に勿体ないとしか言い様がないのです。まぁ、要するに、ぜひ読んでください、ということです。
 いまこんな拙い感想を認める手を一旦休めて上下の文庫をぱらぱら目繰っていたのですが、まさか一旦は部屋の隅に抛った『白痴』が、どこから読んでも思わず引きこまれてつい読み耽ってしまう小説であったとは。つくづく自分の甘さを感じます(そういえば、平井呈一翁もマッケンの『生活の欠片』を読んだとき、同じようにこれを収めた本を放り出していたそうです)。
 読み終わったいまは、いろいろ夢想したりしてそれなりに楽しんでいた片想いが終わってしまったような、そんな淋しさと空虚感を弄んでいます。読書もそれと同じで、過ぎ去った濃密な思い出を胸に仕舞うよりなく、もう二度とあの、初めて読むときのドキドキワクワクは経験できないのです。でも、その代わり、古女房に親しむような安心感と再び巻を開いたときの高揚感を体験できるかもしれません━━事実、今回の再読では似た気分を追体験していたわけですから。
 まだドストエフスキーの小説を全部読んでしまったわけでないので、暫定的な物言いになってしまいますが、おそらく『白痴』はドストエフスキーの小説のなかでいちばんエンターテインメント性に富んだ作品である、というておきます。三読の際は、河出文庫の新訳で読むかもしれません。
 次は『白痴』と『未成年』の間に書かれた『永遠の夫』を読むことにしました。◆

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