第0836日目 〈詩編第134篇:〈主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。〉&2011年LFJのテーマは後期ロマン派(「タイタンたち」)。〉 [詩編]

 詩編第134篇です。

 詩134:1-3〈主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。〉
 題詞は「都に上る歌。」

 レビ人よ、主を讃えよ。あなた(方)を主が祝福してくれるように。
 おそらく、と思うのだが、ここで対象となっているのは、祭司職にあるレビ人━━即ち、アロンの子孫に限ることはないだろう。日夜、神殿に奉職するレビ人たちを含めての詩篇、と考える方が自然に思う。
 神殿を舞台背景とする一連の詩群━━詩120以下の<巡礼の歌>、<宮詣で詩集>の〆括りに、その神殿で働くレビ人を対象に据えた詩篇があるのは、「詩編」編纂の過程で生まれた意図であったかもしれない。そこには一種の清々しささえ漂っていよう。
 そうしたことを踏まえていえば、詩134は、日ごと夜ごと神殿にて神なる主に仕えて奉職し、国家の心臓ともいえる聖所を守るレビ人をねぎらう歌ともいえるのではないか━━。

 「主の僕らよ、こぞって主を讃えよ。/夜ごと、主の家にとどまる人々よ/聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
 天地を造られた主が/シオンからあなたを祝福してくださるように。」(詩143:1-3 全)



 今年のLFJのテーマは後期ロマン派、総題を<タイタンたち>という。作曲家としてはリスト、ブラームス、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルクの5人の名がある。━━後期ロマン派の音楽が好きな者には堪らないプログラミングで、さんさんかいまから胸を高鳴らせている一人でありますが、今回の発表を承けて、「なんだかなぁ……」と嘆息したのも事実であります。
 安い値段と質の良い演奏で彼らの曲が聴けるのはもちろんうれしい。が、斯様な括りは、一人の作曲家を一会期で取り挙げるにはプログラミングと集客が困難である、でも彼らは偶々「後期ロマン派」のキーワードで括れるではないか、という本音の裏返しでもあろう。
 とはいえ、それは、後期ロマン派が如何に爛熟の時代であったか、活躍した作曲家たちが如何に巨大な業績と大きな変革を達成して後世に計り知れぬ影響を与えたか、そうしてなによりも重要なのは、この時代にどれだけの作曲家が百花繚乱の如く現れて、大輪の花を咲かせたか、という時代の奇跡を物語ってもいましょう。
 でも、この時代を取り扱うからには、と思うのであります。この時代を取り扱うからには、リストやブラームス、マーラーたちだけで俯瞰できようはずもなく、それならば彼らの周囲にいた作曲家はどう扱われるのか、と。
 たとえば、さんさんかが愛してやまないワーグナーについてはどの作品/曲が演奏されるのか━━やはり、《ジークフリート牧歌》と《ヴェーゼンドンク歌曲集》の他は例の如く有名曲の大盤振る舞いに終始するのか。
 或いは、ブラームスが賞讃したシュトラウス・ファミリー、殊に2世の作品はどれだけの曲が紹介されるのか。ニューイヤー・コンサートでも聴けないような秘曲は登場するのだろうか。
 シェーンベルクが俎上にあげられる以上、ではウェーベルンとベルク、ツェムリンスキーやストラヴィンスキーはどの程度まで紹介されるのか(考えれば考える程LFJにそぐわない作曲家たちであるな)。加えて、シェーンベルクの合唱曲は上演されるのか。いっそのこと、ブーレーズを呼んじゃえ。
 ……まったく以て興味と疑念は尽きない。ワーグナーとベルクについていえば、演奏会形式でオペラ一作、上演しちゃえばいいのにね。個人的には《リエンツィ》と《ルル》原典版を、当然、全曲で熱望する! ここまで来たら、シュトラウス2世のオペレッタ《こうもり》も!!
 それはさておき。
 いずれにせよ、参加者はこの機会を見逃さず、出来る限り多くの公演を梯子して、それぞれの作品が如何に同じ後期ロマン派のなかで熟成し、変化していったのか、或いは彼らがどのように刺激しあっていたのか、と把握するに如くはありません。そのための安価で上質の演奏が楽しめるLFJなのです。◆

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