第0841日目 〈詩編第139篇:〈主よ、あなたはわたしを究め〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第5回〉 [詩編]

 詩編第139篇です。

 詩139:1-24〈主よ、あなたはわたしを究め〉
 題詞は「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。」

 イスラエルの神の普遍性とそれに伴う臨在を喜ぶ詩篇。
 主はいつ如何なる時、場所にも存在し、われらの声に耳を傾け、われらを苦境から救い出す。わたしが生まれる前から主はわたしをご存知である。どこにいても、どんな目に遭っていても、あなたはわたしを導き、わたしを照らしてくれる。
 「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。/曙の翼を駆って海の彼方に行き着こうとも/あなたはそこにいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩139:7-10)
 「あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。/神よ、いかにそれは数多いことか。/数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。」(詩139:17-18)
 どうも引用が長くて済まないが、一行一行きちんと嚙み締めて読むと、すこぶる感動させられる詩篇だ。奇妙なまでの明るさと揺らぐことなき信仰が同居していて、個人的に大好きな詩編なのである。それゆえに原稿も少々乱れた箇所があるけれど、どうかご寛恕願う次第だ。読者諸兄よ、ぜひ直接原文にあたられよ。

 「神よ、あたしを究め/わたしの心を知ってください。/わたしを試し、悩みを知ってください。/御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。/どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」(詩139:23-24)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第5回
 「仕事で、なにかあったの?」わたくしは重ねて訊ねました。
 刹那の後、彼女は、くすん、と鼻を啜り、目を指で拭ってから、顔をあげました。充血して、真っ赤になった目でした。ウッド氏、とか細い声でわたくしの名を呼んでから、彼女の視線はそのままわたくしの肩の向こうへ据えられました。
 その視線の先には、壁際のサイド・ボードの上に置いたフォト・スタンドがあります。写真? 指でそちらを示すと、彼女はこくん、と声もなく頷きました。
 「どなた?」抑揚のない声でした。「元カノ?」
 元カノ、というてよいか判断に迷いますが、まあ、同じような存在です。なにか一杯飲みたい気分に駆られました。甦ってきそうな哀しみを紛らわせたかったのです。そうすれば、少なくとも自暴自棄にはならなくて済む。過去の経験からそれをよく知っているのです。
 ただ、彼女にそのまま伝えてよいものか、悩みました。包み隠さず、ありのままに白状すればいい。でも、気まずい空気になってしまうのが嫌だったのです。楽しい気分のまま、今日一日が終わってほしかったのです。
 じーっ、とメイドの視線が固定されているのが、否応なく感じられます。なにか説明されない限りあきらめない、そんな断固とした決意も、その視線には込められていました。諦念の境地に至った感があります。真実を伝えることにしました。何年も通って馴染みになった喫茶店のメイドに、今晩仕事をするためと雖も泊まりに来た彼女に、素直に心を開いて、ありのままの自分の過去を曝すことにしたのです。
 「この女性ね、ぼくの許嫁だった人だよ」
 ひゅっ、と喉の鳴る音がしました。メイドの表情が硬くなっていました。
 「病気で死んじゃったんだ。もう10年以上になるかな」
 案の定、重たい沈黙がリビングに落ちました。予想はしていたのです、こうなるであろうことは。メイドは俯いてしまい、わたくしはなにも映っていないテレヴィ画面を眺めました。どれだけの時間が流れたか、よくわかりません。壁時計の針の動く音が実際以上に大きく聞こえ、エアコンの唸る低い音は無為な心をささくれ立たせるようでした。鼻で呼吸する音さえ、一時の沈黙を破るためにのみしているようではないか、とさえ思えてなりませんでした。
 ……でも、この重たい沈黙を破ったのは、彼女でした。渡りに船、という感じでした。彼女がそのとき、くしゃみをしなかったら、沈黙はいつまで続いていたかわからなかったのですからね。
 わたくしは立ちあがって、「お風呂を沸かしてくるね」といって、リビングを出ました。ついでに、隣の和室に彼女の布団を用意して、寝支度を整えさせました。英国ではこんなとき、来客のベッド・サイドに誰だかの短編集を用意する、と仄聞します。これに倣ってわたくしも、今世紀になって脚光を浴びた女性作家のデヴュー短編集と、前世紀の英国で活躍して女王陛下もご愛読された最強のユーモア作家の短編集を、それぞれ用意しておきました。ちょっとキザであったかもしれませんが、この選択にわたくしは自分の気持ちをこめたつもりでおります。
 安堵したことに風呂あがりのメイドは、いつもと変わらぬ天真爛漫で屈託のない女性に戻っていました。それが演技であったとしても、男はそれに素直に騙されていればよいのです。それが、関係を円滑にするための努力なのです。
 「ワインでも飲む?」と訊いたら、すぐさま「もっちろーん!」と返事がありました。
 あんまり強くないんだけれどね。彼女はそう断りながらもグラスに4杯ぐらい飲んだのでした。目がトロンと落ちていました。唇を半開きにして両頬をすっかり染め、座卓に突っ伏すような姿勢でこちらを見あげました。「ねぇえ?」
 眠くなったの、お嬢ちゃん? 寝床はあっちだよ。
 「あー、いやらしいこと企んでるぅ」
 けらけらと、締まりのない顔で笑ってそういわれました。確かに、濡れた長めの黒髪とほのかなシャンプーの香りにそそられはしましたが、理性をなくす程ではありません。
 「私はさぁ、かなえたい夢があってずっと働いてきたのね。その夢も翻訳家の肩書きをもらってからはどこかに忘れてきちゃったようでぇ。ひっく。で、んーと、あれ、なんだっけ? 私、なに話そうとしていたのかなぁ、わかる? わかるわけ、ないか。ウッド氏だもんなぁ」
 ウッド氏だもんなぁ、とはどういう意味だ。そう、ふだんなら返しているところですが、今夜は彼女の話すべてに耳を傾けていたい気分です。ツッコミはやめておきました。
 だけどね、とメイドがいいました。「いまの私があなたに伝えたいことは一つだけなの。聞いてくれる?」
 ああ、とわたくしは頷きました。どきっ、としました。それも宜なるかな、というところでしょうか。このまま奈落の底へ突き落とされてもいい気分になってきました。
 「ううん、やっぱりいいや。この関係が壊れちゃいそうだから」それからわたくしを見て、「━━でも、いつの日か、聞かせてね。亡くなったあなたの許嫁のこと」
 その眼差しに一瞬、怯みました。「その内に、機会があればね」というのがやっとでした。
 ずるいよ、ウッド氏。こんなに━━、
 言葉の途中で彼女は、ごちん、と額を座卓にぶつけて、そのまま寝息を立て始めました。
 やれやれ、というところでしょうか。ワインとグラスを片附けて、よっこらしょ、と布団まで運んで寝かせると、さもしい気分にならぬ内に、とその場を撤退しました。
 でも、彼女の寝顔は、可愛かったのです。
 風呂を出てから和室を覗くと、自分の部屋へ引っこんで早々にベッドへ潜りこみました。明日は土曜日、どの企業もお休みですが、webで求人情報を探すことは出来る。気になるのがあったら、吟味して(そんな余裕もないのは承知ですが)、応募しよう。どんな会社でも、というわけではないが、或る程度の当たりをつけておくに越したことはありません。
 今日は、生活を大きく揺るがすような体験を2つ、しました。リストラの知らせと、メイドの来訪。<±0>━━否、+が-を上回った日でした。至福、という表現は大仰ですが、間違ってはいない、と信じております。一つ屋根の下に誰かが一緒にいる幸せ。それを噛みしめながら、満ち足りた気分でわたくしは休みました。
 だのに、━━目覚めてみたら、この状況はいったいどうしたことなのでしょう。ぼんやりした頭でカーテンの隙間から外を見やると、寝ている間に降り積もった雪に朝の陽光が照り返していました。そのせいでか、室内はふだんより幾分明るく感じられます。
 明日のことを思い煩うな、と、古来よりいわれてきました。が、今日は━━その日はまだ始まったばかりで、土曜日の、まだ午前7時です。「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。福音書にある有名なこの一節を敷衍すれば、つまり、いま眼前に広がるこの情景について一日たっぷり思い悩みなさい、ということでしょうか?
 嗚呼、それにしても、まったく記憶がありません。
 なぜメイドがわたくしの寝床にいるのでしょう。しかも、なぜ彼女はすやすやと小さな寝息を立てて、Tシャツとショーツだけの、斯くも無防備な姿を曝してぐっすり寝ているのでしょう。
 嗚呼、わたくしには、まったく記憶がないのです。(…to be continued…)◆

 ○さんさんか追記
 昨日〈第0840日目〉の小説第4回を改稿しました。併せて再読などしていただけるとうれしいです。

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