第0843日目 〈詩編第141篇:〈主よ、わたしはあなたを呼びます。〉&掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第7回〉 [詩編]

 詩編第141篇です。

 詩141:1-10〈主よ、わたしはあなたを呼びます。〉
 題詞は「賛歌。ダビデの詩。」

 主はいつもでわれらの傍にいて、われらを見守ってくれる。━━詩139にあった信頼の祈りを前提にして、詩141の作者は呼びかける、主よ、すみやかにわたしに向かい、耳を傾けてください、と。
 本詩は、誘惑に屈することのないように心を強く、確かに保つことを約束し、悪を行う者が主の網にかかって投げ落とされることがあっても、どうかわたしだけは免れることができますように、と願う詩篇である。心が弱まれば誘惑に支配され、行動してしまう。それを諫め、戒める作物でもあるわけだ。
 一点だけ疑問がある。第7節、骨を陰府の入り口に散らされた「わたしたち」。それは即ち、悪を行う者であろう。彼らが作者の祈りを聴き、喜び、自分たちの骨が陰府に散らされた、というのは、一種の逆説的表現と捉えてよいか。最初読んだときはわからなかったが、何度か読んでゆく過程で、もしかすると、と考えるに至ったわたくしなりの解釈であるが、良しや悪しや?

 「主よ、わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください。/わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。/悪を行う者らと共にあなたに逆らって/悪事を重ねることのありませんように。/彼らの与える好餌にいざなわれませんように。/主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。」(詩141:3-5)

 「主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け/あなたを避けどころとします。/わたしの魂をうつろにしないでください。/どうか、わたしをお守りください。/わたしに対して仕掛けられた罠に/悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。/主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」(詩141:8-10)



掌編小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」第7回
 カウンターの椅子に坐らされてわたくしの上に雷が落ちました。不安は的中したのです。
 雪を除けた喫茶店の入り口で、足が躊躇いました。軒先を行ったり来たりしている内に不安は成長してゆきました。
 ブルーの日除けの下に並ぶレンゲツツジの枝が、中からも外からも視線を遮り、あまり見通しは効かないはずでした。初めてここへ入ったときに気附いて、物騒だな、と他人事ながら心配した覚えがあります。
 しかし、さすがに何度も行ったり来たりを繰り返していると、中にいる人は往復するシルエットに怪しさを覚えるようであります。ドアに付けられたチャイム・ベルが、からん、と軽やかな音を鳴らしました。振り向きざまにメイドと目が合いました。仁王立ちして腰に拳を当て、頬をぷっくら膨らませて、こちらを見据えています。振り返ったまま、その場に立ち竦みました。蛇に睨まれた蛙。そう形容するのに相応しい状況でした。
 「入ったら? 寒いでしょ?」
 仏頂面のままでしたが、いつもと同じくほんわりとした口調。それに幾許かの安堵を覚えました。
 先客が1組、ありました。伝票を持ってレジへ歩いてきます。カシミヤのコートとマフラーに身を包み、背筋を伸ばした白髪の老人と、痩身で取り立てて美人ではないが男好きのする顔立ちをした、化粧の薄い女性でした。メイドは、ありがとうございました、といいながらカウンターの内側にまわり、会計を済ませて、彼らを送り出しました。またどうぞ。つられてわたくしも同じ言葉を口にしました。扉を閉めたときのメイドの目が、ちょっと怖かったですね。
 さて。わたくしとメイド以外、誰もいなくなりました。途端、視界が灰色に染まるような感覚に襲われました。これから始まるであろうメイドの尋問を思うと、天井のスピーカーから流れているバロック音楽は、やけに皮肉たっぷりのBGMに感じられます。まさしく<いびつ>としか言い様のない組み合わせでした。
 「では、ウッド氏━━」
 彼女は隣りに腰をおろすと、カウンターへ背を向けて、凭(もた)れ掛かりました。自然と上半身を反らす格好になり、胸のラインが強調される姿勢となりました。わざとらしくならないよう目を反らすのに、少しばかり努力が必要だったことは申すまでもないでしょう。
 「来てもらった理由、わかるよね?」
 ああ、とわたくしは頷きました。説明の前に落ち着こうと思いました。コップに並々と注(つ)がれた水を呷って口を湿らせると、向き直って彼女を真正面から見据え(額から髪の生え際あたりに視線を固定させました)、口を開きました。が、━━
 「おっと、その前に」とメイド。「注文もらって、いいかな」
 気勢を削がれました。出鼻を挫かれる、というのは、こんな風な場合をいうのでしょうね。おたおたしながら、無難に<晴れの日ブレンド>を注文しました。━━。
 「あなたの口から聞きたかったな」と、カウンターの向こうから、ぽつり、と彼女がいいました。「ウッド氏の会社の内情なんて、私も知ってるんだから、隠す必要なんてなかったのに」
 「隠したわけじゃない。つい言いそびれたんだ」
 「同じことよ」鼻を啜る音がかすかに、でも確かに聞こえました。「非道いよ」
 思わず椅子から腰を浮かしました。でも思い留まってすぐに坐り直した、カウンターの向こうでコーヒーを淹れている彼女が「あっ」と小さく声をあげたからです。再び鼻を啜る音。ねえウッド氏、と呼びかける彼女の声がわずかに震えているのに、そのとき気が付くべきだったかもしれません。
 「失敗しちゃった。すぐに淹れ直すね」
 ━━ややあって運ばれてきたコーヒーは、少ししょっぱい味がしました。隣りへ坐り直した彼女は先程と同じようにカウンターに背を向けて、しばらく俯いたまま指先でエプロンの皺をいじくっていました。
 長い、長い時間が流れたように思います。お互い、何一つ言葉を交わすこともなく黙りこくっていました。やたらに明るい曲調のバロック音楽がわれわれの間に、あたかも野次るように流れ続けている。彼女がわたくしへ凭れてきて、さめざめと涙を流し始めた━━斯くしてその長い時間は終わりを告げました。そうして、噎び泣くその声は一時(いつとき)ながら音楽を退けたのです。(…to be continued…)◆

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