第0846日目 〈詩編第144篇:〈主をたたえよ、わたしの岩を〉&連載中に報告できなかったこと。〉 [詩編]

 詩編第144篇です。

 詩144:1-15〈主をたたえよ、わたしの岩を〉
 題詞は「ダビデの詩。」

 思うのだが、「詩編」には同工異曲の作品が多く、毎日一篇ずつ読んでいると流石にげんなりすることもあるのに、それでも毎日それらを(そのときなりに)真剣に取り組み、読み終えノートを認め終えるごとに、静かな余韻とさわやかな満足とあたたかさに満ちあふれた幸福を覚えるのは、なぜなのだろうか。
 それはおそらく、すべての詩篇が読者へ直接語りかけてくるからだ。どこかしらに必ず琴線へ触れる箇所がある。或いは共鳴し、或いは慰めてくれる箇所がある。だから、毎日読み続けられるのだ。それは信徒であるか否かを一蹴し、超越した普遍の事実である。
 前置きが長くなったが、詩144についてもやはり過去に読んだ作品群に同傾向のものがあった。
 しかし、ここでわれらの心を惹くのは、主の教えに従わない衆が討たれることを望むのではなく、<人間>というちっぽけでなににも足らぬ存在へ主が目を配り、思いやってくれることへの感謝についてである。そのような主をわれらは讃え、幸いと思う。
 結びの一節にすべての感謝の想いが凝縮されている、そうわたくしは信じて揺るがない。そこに曰く、━━「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は。」(詩144:15)
 いとやんごとなき詩(うた)、と申せよう。

 「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。/人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」(詩144:3-4)

 「わたしたちの都の広場には/破れも捕囚も叫びもない。」(詩144:14)



 小説を連載している間に思うておったことを書く。
 まず、予告通りドストエフスキーは『永遠の夫』(新潮文庫)を読み始めた。でも、日々のあれこれにかまけて、短い作品なのに、否、短い作品ゆえの気楽さか、数ページずつぐらいしか読み進められていない。ようやく前半1/3を消化、というところだ。いつものペース、と開き直ればそれまでですが。たっぷり楽しみ、堪能するとしよう。
 携帯電話を新しくした帰りに寄った書店で村上春樹の新刊『雑文集』(講談社)を発見。即買いした。これまで単行本に収録されなかったエッセイなど収めた本だが、やはり、ヤスケンについて書いた文章と、ジャズ喫茶店主時代に一問一答形式で書かれた開業にあたっての指南(?)はありませんでしたね。これらがあれば、個人的には完璧だったのに……でも、日本初のスティーヴン・キング研究読本に書いていたなんて気が付かなかった━━高校時代に買って耽読していた本なのに。いま確かめてみたら、本当だ、寄稿している(当たり前だ)。この際だから、1980年代前半のキング受容を振り返る意味も兼ねて、ベッドへ持ちこんで読み直そう。
 一昨日の《カルメン》と昨日の『シネ響 マエストロ6』の感想は後日。『相棒2』は……どうしようかな、と思案中であります。
 おお、そうだ、リン・カーター『クトゥルー神話大全』(東京創元社)とP.G.ウッドハウス『お呼びだ、ジーヴス』(国書刊行会)が刊行されて購入した、ということもメモとして付け加えておこう。
 他にもいろいろあるが(なんといっても1週間ぶりの通常エッセイだ)、今日はここまでとしておこう。追伸;来週月曜より以前の職場へ戻ることと相成った。以上。◆

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