第0852日目 〈詩編第150篇:〈ハレルヤ。〉&ドストエフスキー『永遠の夫』;身につまされる小説。そうして、あなたに。〉 [詩編]

 詩編第150篇です。

 詩150:1-6〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。

 神を讃美せよ。どこで? 何のゆえに? 如何にして? それを教える詩篇である。
 単純にして明瞭なものだが、「詩編」の終着点として、或る意味これ以上ない程の高揚感に満ち、歓喜の思いで沸き立っている。シンプルな言葉、シンプルな表現、シンプルな思い。まさに「詩編」全150篇の最後に置かれるに納得の作物であろう。
 「偉大なものはすべからく単純である」という、フルトヴェングラーの言葉を捧げるに相応しい。ハレルヤ。

 「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。/ハレルヤ。」(詩150:6)



 「詩編」全150篇、本日を以てつつがなく終了する。読者諸兄よ、根気よくお付き合いくださり、心よりありがたく思うています。本ブログが「箴言」の扉を叩くまではまだ若干の時間の猶予がある。それまでの別れを、聖書に!
 「詩編」開始当時は太宰治の『ろまん灯籠』を読んでいたそうだ(第0691日目参照)。それは確かドストエフスキーを一時中断して、太宰を何冊か、気分転換に読むつもりでいた時期であった。それがどうやらすっかりはまってしまったようだが、記憶が確かなら、そろそろドストエフスキーに戻らなくちゃならんなぁ、機を見て勇を決さないとこのままドストエフスキーとは永の別れとなりかねないぞ、と心配し始めた時期でなかったか。書架に放ったままな『白痴』が気になり、目に付き、仕方なくなってきた時期でも、あった。
 あれから約半年。現在はなにを読んでいるのか、といえばドストエフスキーに戻って『白痴』を経て、いまは『永遠の夫』。既に申しあげたとおりだ。これはなにやら身につまされる小説である。トルソーツキーにしろヴェリチャーニノフにしろ、彼らはわがドッペルゲンガーではないのか。周囲の人々も、彼らの反応も、わたくしには経験がある。リーザの件とかザフレビーニン家での出来事とか、……そんな諸々が昔の傷を疼かせるのですね。
 小説なんて絵空事。そう割り切れればどれだけ楽か、と嘆息混じりに、このドストエフスキーの小説を、でも楽しんで読んでいるところであります。
 聖書読書ノートを再開する頃には読み終えているだろうが、次が『悪霊』なのか否かは正直決めかねている。いずれにせよ、明日からの「日々の思い・独り言」でこの件について(ドストエフスキーについて、次に読む小説について)、何度か言及することであろう。そこでは加えて、予告のみであった『シネ響 マエストロ6』やオペラ《カルメン》、観た映画や読んだ本、日々の断想などが語られるであろう。
 明日からまた仕事。年度内、みんなと一緒にいられる時間を大切にしたい。新年度は……いや、まだ語らないこととしよう。それまでにちゃんと、伝えられればいいのだけれど、果たして受け入れられるのかな?◆

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