第0871日目 〈「箴言」前夜withエッセイ、改稿か差し替えか?〉 [箴言]

 明日から聖書読書ノートを再開、20番目の書物「箴言」に入る。旧約聖書の折り返し点ともなる書物だ。
 「箴言」は別称“ソロモン王の格言集”。
 かつて読んだ「列王記・上」第5章〈ソロモンの統治とその繁栄〉にこんな一節があった。曰く、「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった」(王上5:9)と。続けて、その豊かな知恵と洞察力によって生み出されて「語った格言は三千」(王上5:12)ある、と。
 これの前に読んだ「詩編」所収詩篇の過半が作者をダビデ王になぞらえた如く、その次に控える今回の「箴言」へ収められる箴言、格言の多くは作者がソロモン王になぞらえられる。個人的にこの構成、配置は面白い、と思うています。
 むろん、なぞらえられる、という以上、すべてがソロモンに帰されるのではない。編纂の過程で作者をソロモンへ仮託された格言が混入した可能性も否定できぬ。いまあきらかに王以外の人の格言とわかるのは第30章と第31章で、それぞれヤケの子アグルとマサの王レムエルの母による託宣、諭しの言葉だ。
 いままで読んできたなかで「箴言」は或る意味、雰囲気を異にする書物である。なにより面喰らう(かもしれない)のは、主への信仰や讃美などというたものが前面に押し出されていない、否、それそのものが影を潜めている点であるまいか。それだけにここで語られる格言は大抵が世俗的である。
 が、「世俗的」という面に拘泥しない方がよい。すべての箴言は「主を畏れることは知恵の初め」(箴1:7)、「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め」(箴9:10)、という言葉の下に集約される、とはジークフリート・ヘルマンの指摘である(『聖書ガイドブック』P110 教文館)。ソロモン王の格言集という世俗的、日常に根差した教えの書物と雖も、「箴言」とて聖書のなかに然るべき理由があって配置された書物なのだ。主への畏れと敬いによって育まれた生活のなかで自ずと芽生えた日常の知恵、人生の哲学であるなら、けっして「世俗的」という一言を以てのみ括ることができないことにも納得できよう。
 「箴言」は全部で31章。ちょうど一ト月後には読み終わる分量でもある。今回のノートを通じて興味を抱かれたらば、是非、実際にご自身でお読みいただけるとうれしい限りです。



 顧みれば前回の「日々の思い・独り言」へ収めた作物には不十分なものが幾つかある。一連の小林多喜二絡みのエッセイとスウェーデン音楽にまつわるエッセイ二作のことだ。
 これらについては機を見て改稿の大鉈を揮うか、他の、もっと自分でも満足できる━━自分の名に於いて公開することに自負と責任を持てる作品と差し替えるか、いずれかの選択を結構本気で検討しているところである。実際の行動に移したときはご報告します。
 先日、と或るブックオフで村上春樹の初期短編集『回転木馬のデッド・ヒート』の単行本を200円で購入しました。既に文庫本で読んでいたけれど、なんかね、単行本でも欲しくなってさ……初版・帯附きだったしね。◆

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