第0879日目 〈箴言第7章:〈父の諭し(九)〉with『悪霊』再読開始、ドストエフスキー作品の新訳について。〉 [箴言]

 箴言第7章です。

 箴7:1-27〈父の諭し(九)〉
 繰り返す、わが子よ、わたしの言葉を守り、戒めを心から離すな。それを心のなかの石板に刻んでおけ。知恵と分別に呼びかけよ。それがあなたを悪しき女から守ってくれる手段だ。
 ━━或る晩のこと、ぼんやり外を眺めていたら、路の向こうの家の玄関扉が開かれて、明るい光がその矩形から洩れた。そこへ見るからに意志の弱そうな男が現れて、ふらふらと、まるで光に吸い寄せられる蛾のように、ふらふらとその光の源へ歩み寄ってゆく。開かれた扉から一人の美しい女が姿を見せて彼を迎えるのが、わたしの目に映った。
 彼女は夫のある身だったが、その留守に乗じて彼を招いたのだった。淫靡と悪徳に彩られた夜、不義密通の夜、十戒で禁じられた禁忌が破られる夜(もとよりこの人妻に禁忌は無縁だ。われらが主の言葉と教えに背くことに馴れた女だから)。
 一時の肉の快楽の誘惑へ抗うこともできず、その意志の弱そうな男は、人妻の艶めく唇に誘われて、家のなかに姿を消した。路の向こうの家の玄関扉は閉じられた。彼はまるで屠殺場へ連れて行かれる雄牛のようだった。そうして彼自身は「自分の欲望の罠にかかったことを知らない。」(箴7:23)
 ━━繰り返す、わが子らよ、わたしの言葉を守り、戒めを心から離すな。それがあなたを悪しき女から守ってくれる手段なのだから。

 「あなたの心を彼女の道に通わすな。/彼女の道に迷い込むな。/彼女は数多くの男を傷つけ倒し/殺された男の数はおびただしい。/彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る。」(箴7:25-27)

 ○これまで〈父の諭し〉で述べられてきた、身持ちの良くない女と付き合うな、という警告は観念的なものでしかなかった。本章は謂わば観念を具体的な描写を交えて語られた教訓譚である。字義のまま、素直に読み進めればよい。
 ノートのために若干筆の走ったことは些か反省しているが、読み返してみて文章や表現を改める必要は感じなかった。教訓譚のダイジェストなど意味がない。苦役に等しい。ならばそれの<核>を伝えることに腐心する方がよいではないか?
 不倫すること、禁忌を犯すこと。それが、道徳に背く行為であるのは事実です。でも、世の中にはよんどころない運命の作用により、それを選ぶよりない男と女もいる。それが宿命の恋である場合だって、この世にはある。多くを語るつもりはないけれど、そんな侘びしく哀しい恋もある、とだけは知っておいていただきたいと思います。
 むろん、箴言で語られるのはそんな宿命論とは無縁の、軽々しいものであるとは指摘するまでもないでしょう。


 キングの短編「エルーリアの修道女」を読み終えた。昨日のことだ。何度目だろうね、読み返すの? そんな次第で今日(昨日か)からドストエフスキーに戻った。勿論、『悪霊』(新潮文庫)である。
 ステパン氏の為人(ひととなり)を語る数十頁だけ読んでいても、なんだか心がはじけるような読書の喜び、想像の喜びを感じます。この小説が<アンプレザントネス>な小説であると既に知っているだけに、こうしたユーモア調の描写が愛おしくてならぬのです。
 さて、これから約半年ぐらいの付き合いになるのかな、じっくりゆっくり『悪霊』の世界を彷徨うとしましょう。
 ドストエフスキー絡みの話題をもう一つ。河出文庫の『白痴』を偶然から借りられて、ちょっと読み比べたりもしてみた。感想? 判断? 河出文庫版で再挑戦しようか、と悩んだりもしましたが、迷いを捨てて架蔵の(=殆ど最後のページにたどり着くことだけを目標に毎日携えていた)新潮文庫で再読してよかったな、というのが、正直な気持ち。
 概ね、というてよいかわからぬが、ドストエフスキー作品については光文社などで出ている新訳よりも、長く江湖に親しまれ人口に膾炙してきた新潮文庫の訳文の方が読みやすい日本語になっているようだ。これは、たとえばフランス文学のジュネやバタイユでも同じことがいえる、と思います。もっとも、プルーストについては光文社古典新訳文庫の方がしっくりと馴染むのですがね。
 これらを偏に訳者と読者の相性、という一言で片附けてよいか、迷うところであります。◆

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