第0887日目 〈箴言第15章:〈柔らかな応答は憤りを静め〉withもし、タイム・トラヴェルが出来たなら……〉 [箴言]

 箴言第15章です。

 箴15:1-33〈柔らかな応答は憤りを静め〉
 心をほがらかにし、喜ばせるのは、正しい人の唇から零れ落ちる言葉である。それは憤りを鎮め、癒しをもたらす。彼/彼女には知恵がある。英知がある。それによって歩みを正し、道を求めて道を見出す。彼/彼女の前に道は開かれている。
 が、愚か者の道は塞がれている、茨によって。愚か者は諭しを厭うて道を捨てる。彼/彼女の心は定まることがなく、その口からは怒りや恨みを買う言葉が吐かれる。彼/彼女の一生は貧しく、煩いに満ち、喜びの光は一条も照り注がない。
 「諭しをなおざりにするものは魂を無視する者。/懲らしめに聞き従う人は心を得る。」(箴15:32)

 「心に喜びを抱けば顔は明るくなり/心に痛みがあれば霊は沈みこむ。」(箴15:13)

 ○ここで書き記したこと、また引用した文言すべてにいえることですが、特に箴15:13で述べられることは、誰にしも覚えがあるのではないか。喜びがあるとき、憂いがあるとき、人間ってふしぎとそうなるんですよね。こんな小さなところに真実と思える言葉、極東の島国に住むわれらにも無条件で理解できる/共感できる/身に覚えのある言葉が潜んでいるから、「箴言」を読むのは面白い。
 さすがにここまで格言が並べ立てられると、わたくしのように毎日1章ずつ、一行ずつ読み進める方法を採っている身からすればときには砂を噛むような思いを抱くこともありますが、これはあくまで聖書を初めて読み通そうと企てた者が絶対通らねばならぬ(茨の?)道。いまこの通読作業、ノートを取る作業が終われば、後日、或いは何年後かに再び「箴言」を読むときに非常にスムーズに読書も理解も進むはず。そのときのために、いまこうして毎日読んでいます。
 そんな最中に、斯様な言葉をふとした拍子に発見し、下線を引いたりノートに書き写したりするのは、とても楽しくて魂の内奥で沸々と、静かに感じる歓喜を覚える瞬間です。



 タイム・トラヴェルを扱った小説、或いはそれについて思いを馳せるとき、自分がいま時間旅行者となれたなら、いつの時代にいちばん行ってみたいか、と考えることがある。自分ならいつの時代を選ぶか? 個人的な思いに囚われず趣味にまつわる範囲で考えるなら、なにはさておいてもカラヤンの演奏会に行ってみたい。殊に1989年4月、生前最後の演奏会となったVPOとのブルックナー交響曲第7番を聴きたい。
 これを実際に自分の耳で聞くことが叶ったなら、大袈裟な物言いで毎度済まないが、もう自分の人生、このあとは余生に等しい。その日、ムジークフェライン・ザールで鳴り響いた崇高ともいうべきブルックナーをこの衰えつつある耳で聴き、潤いを欠きつつあるこの心で感じられたなら、他になにをこの人生に━━少なくとも音楽に関して求めることがあるというのか?◆

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