第0889日目 〈箴言第17章:〈乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば〉withサリンジャー『ライ麦畑』再読志望。〉 [箴言]

 箴言第17章です。

 箴17:1-28〈乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば〉
 正直であれ、偽りを求めるな。正直であることは祝福、偽りは滅び。「悪をもって善に報いるなら/家から災難は絶えない。」(箴17:13)
 神に逆らう人は悪の唇、偽りの言葉にしか耳を傾けることがなく、やがては友情を裂き、他人(ひと)から賄賂を贈られて断らずに仕舞いこみ、遂には公正なる裁きをねじ曲げる。当座はそれでもよいだろう、が、それは必ず破れを招き、滅びへ導く。
 正直で知恵ある者は口数を費やさない。沈黙は金。とはいえ、無知かつ愚かな者も黙っていれば賢く、聡明に思われる場合がある。

 「どのようなときにも、友を愛すれば/苦難のときの兄弟が生まれる。」(箴17:17)

 「喜びを抱く心はからだを養うが/霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」(箴17:22)

 ○本章では<心>について語られます。言葉は心の思いが形になったもの。多弁は労多くして実をもたらさない。それゆえ愚か者も過大評価されるときがあるけれど、口を開けば馬脚を現す。いまの社会にもいますよね、たくさん。職業や年齢を問わず。
 それにしても、箴17:1「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば」とは、心をあたたかくさせてくれる、優しい言葉ですね。こんな言葉に出会うと、ほっ、とします。



 いまよりずっと若い年齢のときに読んで、ずっしりと心の奥底に居坐ってそれを意識させる作品がある。一方で当然のことながら、読んだけれどさっぱり記憶から内容が抜け落ちてしまっている作品もある。近頃は、読んだことだけ覚えていて他はなにも記憶にない作品の再読を志したい、と、よく考える。
 J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』もその一つ。再読にも相応の時期がある。それは承知だ。サリンジャーはその最右翼である。が、この再読作業を通じて、自分の心のなかにまだ『ライ麦畑』をダイレクトに受け止められる感性があるか、なによりそれを確かめたい。勢いに任せて読み落としたり、あまり考えの行き届かなかった部分について、眼差しを注いでみたいのだ。別のいい方をすれば、それらにいまの自分が気附けるか、という一種の挑戦でもある。
 サリンジャーについては以前挙げた『ナイン・ストーリーズ』とこの『ライ麦畑』だけで充分だと思うている。だからこそ、いま再びの読書を志すのだ。◆

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