第0893日目 〈箴言第21章:〈主の御手にあって王の心は水路のよう。〉with雨宿りしたスタバで『悪霊』を読む。〉 [箴言]

 箴言第21章です。

 箴21:1-31〈主の御手にあって王の心は水路のよう。〉
 神の目に悪と映る行いに励み、その道を踏み外している者について、多くの諫めの言葉が費やされる。「目覚めへの道から迷い出た者は死霊の集いに入る。」(箴21:16)
 その言葉は手を変え品を変えて、神に逆らう者や悪へ欲望を注ぐ者、欺く者や怠け者の姿を炙り出してゆく。これらは概ね過去にも触れられてきた事柄だが、改めて彼らに対する言葉がこうして列記されたのを読むと、イスラエルの神、旧約聖書の神が、如何なる出自であろうとも、そこへ正邪の境界を明確に引いており、その視座から公正に扱っているのがわかってくる。うーむ、ブレがないから却って清々しいな!
 ただ、そのなかにあって、次に引く文言はわずかなりとも救われた気分と安堵の気分をわれら読者にもたらしてくれるのではないか。曰く、━━
 「歩む道が曲がったりそれたりしても/清く正しい行いをする人がある。」(箴21:8)

 「怠け者は自分の欲望に殺される。/彼の手が働くことを拒むからだ。/欲望は絶えることなく欲し続ける。」(箴21:25-26)

 ○<曲がった道を歩む者=父の諭しに耳を傾けず、人を欺き、神に逆らう者=やがて滅びに至ることを決められた者>という公式がこれまではあった。むしろ、それがお馴染みの展開であり、お約束にもなっていた。
 が、実はそうではないらしい、と昨日、遅まきながら気附いたのである。これまでもそれを窺わせる文言はあったにもかかわらず。え、これまでもあった、だって? 然り、あったのである。たとえば、「人間の心は自分の道を計画する。/主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴16:9)━━昨日読んだ「人の一歩一歩を定めるのは主である」(箴20:24)というのと非常に近しいメッセージではないか。
 神なる主の教え、或いは父の教えから逸脱するような行いをする者のなかにも神の目に正しいと映ることをする者がいる、という一種の福音が伝えられるのは、必ずしも善でばかりはいられない人間にとって救いといわずしてなんというのか。
 それはきっと、一見道を踏み外して悪行を尽くすように見える者にも善の心はあり、父や母を蔑ろにすることの後ろめたさや人を欺くことに幾許かと雖も躊躇いを感じるだけの人間らしい心を持っているのだ、という証しであろう。こうした人間は最後、裁かれるのかな、それとも、贖われるのかな……。ぼくは一体どちらなんだろう?



 銀行で用を済ませて中古レコード店を覗いた帰り、遂に訪れたじゃんじゃん降りの雨を避けてスターバックスへ避難。奥の席でコーヒーを飲みながら、ドストエフスキー『悪霊』を読む。前回とは異なって、ぐいぐい引きずりこまれてゆく。ページを繰る手が止まらなくなる、さりながら時間の都合で今日はここまで。それがなんと勇気のいることか!◆

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