第0903日目 〈箴言第30章:〈アグルの言葉〉with読書の桃源郷を夢想して。或いは、俺って暇?〉 [箴言]

 箴言第30章です。

 箴30:1-33〈アグルの言葉〉
 ――これはヤケの子アグルの言葉である。
 アグルはその名が示すように不信心な者であった。或るとき、かれは神なる主にこういった、私は疲れた、と。疲れ果ててしまった、と。ここにアグルは告白して罪を捨て、憐れみを受けようとしたのだろう(ex;箴28:13)。
 誰よりも粗野で、人間としての分別もなく、知恵を教えられたことも、父から諭しを授けられたことも、聖なる方/即ち主を知ることもできなかったアグル。かれはここに告白して罪を捨てる。
 神よ、とアグルは訴える。私はあなたへ2つのことを乞い願います、どうかわたしが死ぬまでそれを拒んだりしないでください、と。
 1;「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。」(箴30:8)
 2;「貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。」(同)
――憐れみを!
 ……第15節以下、飽くことを知らぬ者(15-16)、知り得ぬこと(18-20)、耐え得ぬこと(21-23)、小さき知恵者の知恵(24-28)、堂々と歩く者(29-31)、について、アグルは述べる。「父を嘲笑い、母への従順を侮る者の目は/谷の烏がえぐり出し、鷲の雛がついばむ」(箴30:17)のだ。

 「神の言われることはすべて清い。/身を寄せればそれは盾となる。/御言葉に付け加えようとするな。/責められて/偽る者と断罪されることのないように。」(箴30:5-6)

 「増長して恥知らずになり/悪だくみをしているなら、手で口を覆え。/乳脂を絞るとバターが出てくる。/鼻を絞ると血が出てくる。/怒りを絞ると争いが出てくる。」(箴30:32-33)
 →これは自らへの戒めの言葉であろう。今日のわれらにも通用する言葉だ。

 ○本文中に挿入できなかった文章をここに書きます。
 アグルの父ヤケはイシュマエルの子マサの子孫とされ、その子孫は北アラビア地方に住まった、という。ヤケとは「聡明な」、「用心深い」の意味。その子アグルの名には「金で雇われた者」、「集める者」という意味がある。「箴言」で散々悪くいわれてきた、神に逆らう者やその道を正しく歩まぬ者の類だ。
 一方、「マサ」を普通名詞として訳すと「託宣」になる。箴30:1にて「託宣」と補記されるのは斯様な理由であろうか。
 ――これまで読んできた箴言のどの章にも優って理解と共感を抱く章である。それはおそらくアグルが悔い改めた者だからか。日本人ならではの判官贔屓、というてしまえば身も蓋もないけれど、この罪の告白と悔い改めの言葉、悔悛の決意にはとても清らかな思いを感じる。「貧しくもせず、金持ちにもせず」云々なんて、人生の仕切り直しを本気で固めた者でないと、そう易々とは口に出せない言葉ですよ。



 WOWOWのドラマW『幻夜』と今年公開された『白夜行』に触発されて、数年ぶりに東野圭吾の小説をたっぷり楽しんでいました。たぶん、これだけ集中的に読んだのは約10年ぶりでないか。でも、もうこれ以後読むことはないだろうな。
 『むかし僕が死んだ家』などで感心したトリッキーな作品よりも、一つの事件を媒介として様々に展開してゆく人間模様に主眼を置いた作品へ移行してきているな、というのが今回の読書を終えての印象。もっとも、帯に踊る<堀北真希さん激賞!>の惹句にやられた『白銀ジャック』などは昔通りの東野作品だなぁ、そう感じつつページを繰ったのですがね。勿論、トリッキーな作品であっても人間描写は上手いのですが、後者ではそれがより深化している、と言い添えておきたいのです。
 これを契機にいままで読んでこなかった作家、或いは特定の小説を読み倒したくなった――いまぐらいの季節になると発症する持病である――。昨日書いた乙一もその一人。『ハイドゥナン』に感動したあとに刊行されたものの、発売当時はさすがに手が出せず(ちょっと金銭的な問題でね)機会を逸していた藤崎慎吾の『鯨の王』や、WOWOWで放送中の『CO 移植コーディネーター』の小説を書いた秦建日子の『推理小説』シリーズなどを休みの今日、商店街の本屋と古本屋で買ってきて陽の当たる縁側で読み耽ることを夢想している。読書の桃源郷という表現は、いくらなんでも大袈裟かね?
 ドストエフスキー? だいじょうぶ、ちゃんと読んでいるよ。蝸牛の歩みだが『悪霊』はしっかり前に進んでいる。ド氏って面白いよな!◆

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