第0931日目 〈「コヘレトの言葉」前夜〉 [コヘレトの言葉]

 ソロモン王に仮託される伝道者、即ちコヘレトは、人間が人間を支配して苦しみをもたらす時代を生きた。彼は天の下に起こる諸々の出来事について、知恵と知識を得ようと努めた。そうして人の営みをあまねく見聞して自らも経験しようと努めた。しかし、その結果は、一切が<空>であった。……。
 新改訳では「伝道者の書」と訳される「コヘレトの言葉」は、冒頭部分が際立って有名である。
  コヘレトは言う。
  なんという空しさ
  なんという空しさ、すべては空しい。(コヘ1:2)
  (空(くう)の空(くう)。伝道者は言う。空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。;新改訳聖書)
 全編を支配する調子(トーン)がややもすると厭世的であるため、旧約聖書のなかでは「箴言」と並んで日本人の好みに合う書物とされてきた。さりながらここで肝に銘じるべきは、厭世的と雖も『平家物語』や『方丈記』に漂うそれと「コヘレトの言葉」が孕むそれは、安易に直結し得るものではない、ということだ。
 すべては滅び、空しうなる。この点で「コヘレトの言葉」とわが国の中世文学は結びつく。が、「コヘレトの言葉」はそれで完結しない。だから━━というのである、だから喜びを以てパンを食べ気持ちよく酒を飲み、愛する人と共に暮らし、あなたが幸福と思える人生を送りなさい、というのだ。それが太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報い(コヘ9:9)である、と。
 誰にでも運命は━━<死>は等しく訪れる。生きている間にどれだけ栄華を極め、如何にその名をあまねく知られた人であろうとも、生きている間にどれだけ慈善を施し、如何に社会へ貢献して讃えられた人であろうとも、亡者となってしまえばやがては生ある人々の記憶から薄れてゆき、ましてや代が替わればかの人の名も行いも忘れ去られる。賢者の前にも愚者の前にも光と闇は等しく存在し、いつでも互いに相手を凌駕し得る。永遠のもの、永続するものなど人間の世界にはない。
 「コヘレトの言葉」は再三に渡ってそれを説く。本書は諦念の書物である。と同時に人生論でもある……限りある人生を、神を畏れその戒めを守るなかでどう充実させて生きてゆくか、という。苦しみも喜びもやがて空しうなる、いずれも風を追うようなことだから。
 本書は全12章で構成される。ブログと同様一日一章ずつ読むのもよいが、まずは通読してみてほしい。そうすれば、この短い書物はあなたに様々なことを語りかけてくるだろう。殊にコヘ11:6-12:8は本書の要ともクライマックスともなる部分である。
 最後に。“コヘレト”は個人を特定する名前ではない。その意味は「集会を召集する者」或いは「集会の中で語る者」(新共同訳付録・用語解説 P9)、転じて「伝道者」と訳されてきた。いろいろ考えたが「ありのままに読んでゆく」という決まりの下、本ブログではコヘ1:1の詞書に拠りイスラエルの王、ソロモンを指すとして進めてゆく(多くの聖書学者はコヘレトをソロモンより何世紀も後の人物である、としている)。ソロモンは若かりし頃に「雅歌」を書き、老いて後に「コヘレトの言葉」を書いた、という。「箴言」はソロモンの言葉を周囲の人々が集めて編んだ書物である、と。
 明日から「コヘレトの言葉」を、では一緒に読んでゆきましょう。◆

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