第0934日目 〈コヘレトの言葉第3章:〈何事にも時があり〉&メモリアル・イヤーを迎えたマーラーですが、……〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第3章です。

 コヘ3:1-22〈何事にも時があり〉
 森羅万象には<時>というものがある。人の一生についても、然るべき<時>がある。それを時宜というてもよい。笑う時と嘆く時、求める時と失う時、愛する時と憎む時、戦乱の時と平和の時。
 人生に<時>があるならば、労苦してみたところで何になろう。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」(コヘ3:11)神の業は永遠にして不変、足すことも引くことも許されず、またそれがために人は神を畏れ敬うように定められている。
 すべては塵から生まれて塵に返る。人間が他の動物に優るところなどありはしない。人間も他の動物と変わるところなど一つもない。神はそれを教えるために人を試す。所詮は人間、有限の時間を与えられてそのなかで生きるしかない存在。儚く、空しい。わたしコヘレトは思うのだ、━━
 「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。/死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」(コヘ3:22)
 だから、<時>を惜しまず<いま>を生きよ。

 この章を読むと世阿弥を思い出します。『風姿花伝』の「人生には自ずと<時>というものが存在する」なる一文。翻刻本が手許にないのですが、概ね間違っていないと思います。
 「コヘレトの言葉」と『風姿花伝』は、部分的に似通ったところがあります。「コヘレトの言葉」を語る聖書学者、或いは教会の人々が『平家物語』や『方丈記』ばかりを持ち出すのに小首を傾げること度々でした。それらよりも、世阿弥の『風姿花伝』の方がはるかに魂の色が似ている、もしくは二卵性双生児というてもふしぎでないのではないか、と。
 彼らはこの書物を知らないのか、それとも読んだことがないのか。いみじくも彼らとて日本人である以上、この本がどういう内容なのか、どんな思想を内包しているのか、ぐらいは高校生向けの古典文学案内の類で押さえておいてほしいものであります。
閑話休題。さりながらわたくしは「コヘレトの言葉」を或るスターバックスで通読した際、本章に至って初めて、本当の意味で「コヘレトの言葉」という書物を「わかった!」と実感できたような気がします。そうなると、この書物で語られる様々な事柄に首肯したり、理解、或いは納得できる部分が生まれてくるのですね。
 諦観のみでなく肯定。人生は空しい、人間なんてどうということない存在。でもそのなかで与えられた時間のなかで後悔しないように生きようじゃないか。Carpe Diem.



 今月17日に没後100年を迎えるマーラーの音楽を狂的に愛でていた時期が、わたくしにもありました。でも、或るときに、ふっ、と、その熱が冷めて一部の曲を除いて他は聴かなくなった。なぜそうなったのか、理由を端的に述べれば「マーラーの音楽に対峙する熱意を失ったからだ」というよりありません。
 個人的な経験ですが、マーラーは青春期の音楽と思うことが多い。むろん、交響曲第9番のように人生を重ねてこそその地味と儚さをわが身に引きそえてわかるようになる曲もある。だけれど、第1番とか第5番とか、わたくしはもう余程のことがない限り、これを積極的に聴くことはあるまい。思い出したように手を伸ばしたり演奏会に足を向けたりすることはあるだろうけれど。なんていうか、恥ずかしい。
 交響曲の全集としていま手許にあるのはショルティ=シカゴ響(LP)、アバド=BPO/VPO/シカゴ響とテンシュテット=ロンドン・フィル(CD)だけ。他にあったインバル、クーベリックなどは処分した。バーンスタインもあるにはあったが概ね処分して、未だ架蔵するのは、好きな曲である交響曲第3,4,6,7,9番のみ。他は、必要ない。マーラーの粘っこさや手に届かぬ至高の存在を求め倦ねて苦悩する様、自然に対する崇敬と憧れと親近は、おそらく前述の5曲に集約されていると思うに至ってがゆえ。従って散漫な所蔵ディスクのなかでもこれらの曲ばかりが、幾人かの指揮者の録音で並んでいるのだ(朝比奈とか小澤とかシェルヘンとかブーレーズとか……)。━━全集のCDでアバドとテンシュテットを残した理由? さあね。ただ、全面的に好きな指揮者であったから、とお茶を濁しましょう。
 正直なところ、今年がマーラーのメモリアル・イヤーであることをすっかり忘れていた。この点を以てしても如何にマーラーという作曲家に殆ど興味を失っているか、お察しいただけよう。書店の平台にマーラーの文庫が並び、音楽書のコーナーでマーラーが目立つようになって、ああそうだったな、と思い出したという為体(ていたらく)だ。音楽については斯様に興味を失い、数多の作曲家と十把一絡げの扱いをしているマーラーだが、その為人(ひととなり)についての興味は持続している。
 興味というてもミーハーなことこの上なく、かつて或るクラシック雑誌に掲載されたマーラーの好物(だったかな)「パプリカヘンドル」を、興味本位で作ってみたら結構美味くて、いつの間にやらわたくしの定番となったりもした。パプリカにも辛さの度合いってあるんですネ! 作曲は歌劇場の仕事が休みのときに別荘の敷地の片隅に建てた作曲小屋で行ったとか、んー、もう理想的だよね(この作曲小屋が昨年の賀状小説で触れた主人公の仕事部屋であるのは申すまでもありません)。
 繰り返すけれど、その交響曲すべてを聴く気は、もうない。が、好きな曲については(歌曲も含めて)もう少し頻繁に耳を傾けてみるのもいいかな、そうすれば20代前半の頃とはまた違った発見や楽しみもできるかもしれない。グスタフ・マーラーが逝った100年前の今月をあれこれ想像しながら、そんな風にちょっぴり期待も含めて考えている。
 それでもやっぱり、マーラーよりはブルックナーの方が好きかなぁ、おいらは。◆

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