第0935日目 〈コヘレトの言葉第4章:〈わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。〉&ドストエフスキー『悪霊』上巻を読了、下巻に入りました。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第4章です。

 コヘ4:1-17〈わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。〉
 この天の下、大地の上には虐げられる人々がおり、彼らを虐げる者らもいる。双方を慰める者はいない。虐げられる人々の目に浮かぶ涙、虐げる者らの手にある力━━それらを留めたり、軽減させられる者はいない。既に死んだ人は虐げられることがないから幸せだ。いや、もっと幸せなのは太陽の下で行われるあらゆる悪い業を見ることのない、この世に生まれてこなかった命だ。残酷だが、それが真実である。
 人は、仲間に対する競争心から利己的になり、もっと稼ごう、もっと金を蓄えよう、名を挙げよう、と貪欲になる。際限はない。或る男がいて、富を増やしてゆくことに飽くことがなく、「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」(コヘ4:8)と疑問を抱くこともない。━━なんと空しく、不幸なことではないか。
 「ひとりよりもふたりが良い。/共に労苦すれば、その報いは良い。/倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。/倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。/更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。/ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。/三よりの糸は切れにくい。」(コヘ4:9-11)
 ━━卑しい身分のなかにも立派な人がいる。崇敬すべき立場や身分であっても愚かで白痴な者もいる。が、前者が民を指導する地位に就いて、民がこれを歓迎して支持したとしても、その代限りでしかない。民の代は限りなく続いてゆく。先立つ代にも後の代にもこれを喜び祝う者はいない。
 また、自覚なき悪人は神殿に通うのを慎み、供え物などせず聞き従う方がよい。

 特定の人物に対する讃美はその時代限りの現象であり、それ以前の時代にもそれ以後の時代にも通用するものではない、との指摘は覚えておいてよい。余りに当たり前すぎて、誰もその事実に思いを巡らせようとしないようです。自然と時間の前に人間は無力である。これを忘れてはなりません。「コヘレトの言葉」を読んでいると、否応なく突きつけられることでもあるのですが……。
 引用したコヘ4:9-11ですが、これについては言葉も必要ないでしょう。その通り、であります。ひとりよりもふたり。励まし、助け起こしてくれる友のあることがどれだけ良いか。自分一人で人生を過ごすよりも伴侶となる異性が傍らにいて、一緒に歩いてくれた方がどれだけしあわせか。嗚呼!



 『悪霊』上巻を読了、間を置くのがいやでそのまま、下巻━━第2部第6章の始めの部分だけだが、読んだ。心が震える思いを味わいながら、いまも少しずつ読み進めている。ロシア文学を読んでこんな感情を抱いたのは、ドストエフスキーが初めてだ。その感情とは、即ち、面白い、という単純明快なそれである。
 ページを繰る手が止まらない。時間さえ許せばまさしくいつまでも読み耽っていることであろう。息をつく間もない、とは過ぎた表現かもしれぬが、一旦読書のペースが軌道に乗ったらなかなか巻を閉じる勇気が奮えないのは事実だ。でも、まだ下巻は始まったばかり。これから約2,3ヶ月の長旅が続く。楽しいことだ。
 光文社古典新訳文庫から『悪霊』が第2部まで出ているが、これは古本屋に流れたら買うことを検討している。亀山郁夫の訳文にはどうにも馴染めぬものを感じるのだ。新潮文庫の方が訳文の日本語は自然で、流れがよい。版を重ねてゆくなかで修正が加えられた結果かもしれない。いずれにせよ、これからドストエフスキーを読みたい、と個人的に相談を受けたら、いま自分が読書に使っている、そうしてその背表紙に馴染んできた新潮文庫を推薦する。
 ダザイを切り上げてドストエフスキーに戻った際、『白痴』と『悪霊』への再挑戦を決意、実行して、本当に良かった。こんなにすばらしく鬱々とした、でも奇妙に明るい傑作へもう一度向き合えたのだから。◆

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