第0940日目 〈コヘレトの言葉第9章:〈わたしは心を尽くして次のようなことを……〉&ドストエフスキー『悪霊』、「スタヴローギンの告白」を読み終えて。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第9章です。

 コヘ9:1-18〈わたしは心を尽くして次のようなことを……〉
 万人は神の前に平等である。誰の身にも同じことが起こり得る。職業や身分、人間の貴賤に関係なく。良いことも悪いことも、同じように誰の身にも臨むのだ。その上、生きている人間の心は悪に満ち、思いは狂い、死を待つだけと来ている。が、それでも生きてさえいればまだマシか。死者はなに一つ感じない、なに一つ知らないのだから。この世の営みになんの関わりも持たないのだから。生者のように突然不幸に見舞われたり罠にかかったりもしないのだから。
 だから、あなたは喜んであなたのパンを食べ、あなたの酒を飲むがいい。神はそんなあなたの業を受け入れてくれる。
 「太陽の下、与えられた人生の空しい日々/愛する妻と友に楽しく生きるがよい。/それが、太陽の下で労苦するあなたへの/人生の労苦の報いなのだ。」(コヘ9:9)
 (その計らいに、その言葉に感謝!;さんさんか独白)
 ……知恵は力に勝るが貧しい人のそれは侮られ、その言葉は顧みられない。それでも、「支配者が愚か者の中で叫ぶよりは/賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。/知恵は武器にまさる。/一度の過ちは多くの善をそこなう」(コヘ9:17-18)とわたしコヘレトはいおう。

 良いなぁ……というのが、初読から今日に至るまで変わらぬ感想であり、印象であります。
 人間誰だって不幸に見舞われたり幸福に授かることもあるけれど、それが万人は神の前に平等なのだ、ということである。良い人、神の目に正しいと映ることをしている人だけが幸福で、悪い人、即ち神の目に悪と映る行いをする人だけが最終的に不幸に遭う、というのは、神の側にしてみれば到底あり得ぬ理屈なのでしょう。
 万人が平等というのは決して<博愛>ではない。誰の身にも不幸なことも幸福なことも臨みますよ、とは或る意味に於いて、神から民への、仮借なき仕打ちでもあるのです。楽しみも苦しみも、歓びも悲しみも、等しく誰にでも降りかかる、ということなのです。わたくしはそう思います。
 愛も憎しみも人間は知らず(コヘ9:1)、「時と機会はだれにも臨むが/人間がその時を知らないだけ」(コヘ9:11-12)なのです。



 ドストエフスキーでしたね、覚えていますよ。『悪霊』で「スタヴローギンの告白」を含めて第2部を読了した、というお話でした。本来の流れの通り、「イワン皇子」のあとに「告白」を読み「ステパン氏差押え」に戻りました。
 就中「スタヴローギンの告白」にはページを繰る手が震えてきました。息を吐くのも忘れるぐらいに没入し、その畳みかけてくるような迫力に圧倒されて、時間の経過にさえ無頓着になりました。あの時代によくここまで書いたなぁ。なにかを語ろう、話そうとすると途端に濡れたティッシュペーパーのようにぼろぼろになって、指の隙間からこぼれ落ちてゆく━━それぐらい、「スタヴローギンの告白」は衝撃的で強烈な印象を持つ章なのです。でも、押収されたままという告白文の2枚目は気になりますね、やっぱり。
 『悪霊』をドストエフスキー作品のなかで特に好むという人がどれだけいるかわかりませんが、少なくとも5大長編のなかでも頂点に屹立する作品であるとわたくしは信じて疑わない者であります(『罪と罰』よりも好きです)。
 いよいよこの作品は最後の大きなクライマックスへ至らんとしている。祭の始まりだ。カタストロフ……。◆