第0948日目 〈「雅歌」前夜&児玉清さん逝去。〉 [雅歌]

 明日から聖書読書ノートを再開、「雅歌」を読んでゆきます。
 「箴言」や「コヘレトの言葉」同様、「雅歌」もソロモン王が作者に仮託されています。「(王の作った)歌は千五百首に達した」(王上5:12)が典拠であり、数多あるソロモン詩篇のうちでも最上の作品とされます。最上というのは、「雅歌」が“song of songs”と形容されることを承けての謂であります。
 むろん、いまではソロモンの真作と信じる人は余りいないようです。わたくしにはよくわかりませんが、『聖書ハンドブック』(教文社)の著者の一人、ジークフリート・ヘルマンによれば、ソロモン王の御代には日常語でなかったアラム語が「雅歌」のヘブル語原典には使われている由、為に「雅歌」は後代の著述になる書物である云々(P116)。
 本ブログでは、「雅歌」はソロモンに作者を仮託した、祝言を寿ぐ一種の劇であろう、と捉え、その解釈に則って進めてゆこうと思うております。2人の主人公、即ちおとめ/処女子はガリラヤ出身の少女、若者は同じガリラヤの羊飼いの青年であろう、とわたくしは考える者であります。
 旧約聖書にあっては非常に珍しい、相聞歌であり、古典劇仕立ての書物。艶めかしくて官能的、瑞々しく青春の息吹にあふれた一巻、とわたくしは思います。官能的というてもエロティックなそれを指すのでは勿論なく、むしろ、敬虔な意味合いで受け取るのが正しいでしょう。ただ、男女の交歓が描かれているだけにそれを匂わす表現は、微妙な言葉が用いられています。このあたりは幾らでも卑しく読める箇所でもありますから、みなさんには本文へ直接当たって真摯な姿勢で対峙していただきたいと思います。
 <諸書>に分類されるなかで「雅歌」は「詩編」と並んで、多くの作曲家が好んで曲を付けてきました。たとえばパレストリーナ、《ソロモンの雅歌》という全29曲の連作モテットを作曲しています。
 正直なことを申しますと、この「雅歌」はノートを取るのに厄介な書物で、旧約聖書(続編含む)と新約聖書、両方の内で3本指に入る、というても過言ではない(あくまで個人の感想です)。「雅歌」が具体的視野に入ってきたときから様々考えてきましたが、最終的にこれまでとは異なる方法を採ることにしました。
 即ち、各章全文を引き写し、そのあとに感想と簡単な註釈を加える、という方法です。「雅歌」のエッセンスやアロマ、微妙なニュアンスなどを瑕疵なく掬いあげて読者諸兄の前へ供すにはこの手段しかない、と思い至ったのです。手抜きのように映るかもしれませんが、散々悩んだ末の判断であることをご了解いただければ、甚だ幸いであります。



 児玉清さんが逝去されました。享年77。数日前の新聞に番組収録を延期した旨記事が掲載されましたが、よもや斯くも早く白玉楼中の人となられようとは……。
 俳優として、司会者としてのみならず書評家としても好きな方でした。その内に機会を見附けて児玉さんの書評本の感想を追悼代わりに認めて、ここに公開しようと思います。
 ありがとうございました。ゆっくりお休みください。◆

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