第0950日目 〈雅歌第2章:〈わたしはシャロンのバラ、野のゆり。〉&シンプル・ライフへの第1歩→書架の整理をした。〉 [雅歌]

 雅歌第2章です。

 雅2:1-〈わたしはシャロンのバラ、野のゆり。〉
   (おとめの歌
 1:わたしはシャロンのバラ、野のゆり。

   若者の歌
 2:おとめたちの中にいるわたしの恋人は
  茨の中に咲きいでたゆりの花。

   おとめの歌
 3:若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
  森の中に立つりんごの木。
  わたしはその木陰を慕って座り
  甘い実を口にふくみました。
 4:その人はわたしを宴の家に伴い
  わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。

 5:ぶどうのお菓子でわたしを養い
  りんごで力づけてください。
  わたしは恋に病んでいますから。

 6:あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
  右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。

 7:エルサレムのおとめたちよ
  野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
  愛がそれを望むまでは
    愛を呼びさまさないと。
 
  恋しい人の声が聞こえます。
  山を越え、丘を飛んでやって来ます。
  恋しい人はかもしかのよう
  若い雄鹿のようです。
  ごらんなさい、もう家の外に立って
  窓からうかがい
  格子の外からのぞいています。

 10:恋しい人は言います。
  「恋人よ、美しいひとよ
     さあ、立って出ておいで。
  ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。
  花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
  この里にも山鳩の声が聞こえる。
  いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
  恋人よ、美しいひとよ、
    さあ、立って出ておいで。

 14:岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
  姿を見せ、声を聞かせておくれ。
  お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」

 15:狐たちをつかまえてください
  ぶどう畑を荒らす子狐を。
  わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。

 16:恋しいあの人はわたしのもの
  わたしはあの人のもの
  ゆりの中で群れを飼っている人のもの。

 17:夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に
  恋しい人よ、どうか
  かもしかのように、若い雄鹿のように
    深い山へ帰って来てください。

 「雅歌」は、若者よりも処女子の歌の方にメインが置かれている、とわたくしは感じます。心情吐露に関しては彼女の方が語彙も表現も豊かで、夢想の中身も相当に桃色……。でも、なんだか大らかで、おまけに可愛らしいですね。この処女子には初恋なのかな。なんというか、妄想が炸裂しています。
 雅2:2(若者)、3(処女子)の台詞には、共感できる部分があるでしょう。野や森のなかに数多、花や樹があろうとわたしの恋人はその内でも最も目立つ存在、わたしはそれを見間違えようはずがない、という箇所など、特に。学校でも職場でも、恋しているとその相手だけがクローズアップされて、他はソフトフォーカスされた映像のように映りますよね。否、ソフトフォーカスというのはまだマシな方か?
 なお、山鳩は神への供物(ex;レビ1:14)であると共に、ここでは春の訪れを告げる鳥としての役割を担っています。春告げ鳥……日本でいう鶯のような存在か(山本健吉『基本季語五〇〇選』P49 講談社学術文庫)。
 大らかといえば、これを読んでいて、ふと、神武天皇とイスケヨリ姫が夫婦となる挿話や、崇神天皇の御代にあったイクタマヨリ姫の神聖受胎(三輪山伝説)を思い出したことであります。興味のある方は、『古事記』の現代語訳や注釈書をご覧ください。わたくしが日常的に繙くのは専ら角川文庫と講談社学術文庫、岩波書店の日本古典文学大系であります。また、若者と台詞にはワーグナーの楽劇《ヴァルキューレ》第一幕、ジークムントとジークリンデの台詞さえ思い出させるものがありますね。
 



 よんどころない事情が発生し、部屋の(一部)大掃除を実行した。火の粉は散って他へ飛び火し、ついに書架へ収まる本の入れ替えに発展。序に処分する本もピックアップしたが、100冊にも満たなかった。
 が、これはまだ第1次に過ぎない。今週末、時間を作って更なる選別、浄化に努めよう。三浦しをんの文庫と丸山健二の著作を殆どすべて処分できたのが、今回の成果であります。この調子でよりいっそうの削減を図ろう! どっかの企業みたいだな……。
 目標;村上春樹と太宰治とドストエフスキーとコナン・ドイルを一箇所にまとめる! まとめたい……。◆

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