第1022日目 〈イザヤ書第40章1/2:〈帰還の約束〉with歌いたい、病癒えた者のささげる聖なる感謝の歌を。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第40章1/2です。

 これは〔南〕王国ユダが滅んでかろうじて剣を逃れ得た者らが侵略者バビロニアによってかの地へ強制移住させられて捕囚として過ごしていた時代に第二イザヤへ臨んだ預言とその成就を語った部分である。

 イザ40:1-11〈帰還の約束〉
 「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(イザ40:1-2)
 私こと第二のイザヤに語りかける声がある。荒れ野に広い道を通し、高きものは身を屈め、沈むものは隆起して、全地は平らかになれ、と。主の栄光が現れる様を肉なる者たちがいっしょになって見られるように。
 私に、呼びかけよ、と促す声がした。こう呼びかけよ、と。その声は教えてくれた。肉なる者はみな草に等しい。かりに命永らえたとしてもそれは野に咲く花のようなものだ。草が枯れ、花がしぼむのは、主の風が吹きつけたせいである。民は草に等しい。だから「民草」とも「青人草」ともいうのだ。が、草が枯れても花がしぼんでも、われらが神の御言葉は久遠に立つ。
 シオンに、エルサレムに良き知らせを伝える者は、高き山に登って、力の限りに声をあげよ。国が滅びてもなおユダの旧領にある幾つもの町に住むユダの民へ、━━いまその地を監督するバビロニアの総督の存在を恐れず━━その良き知らせを声高らかに告げ知らせよ。
 「見よ、主なる神。/彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。/見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。
 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザ40:10-11)

 本章から第55章までが「第二イザヤ」と称される部分です。既に〈「イザヤ書」前夜〉で書いたことですが、ここでもう一度繰り返しておきます。
 即ち、本章から始まる<第二イザヤ書>は(第56章以下の<第三イザヤ書>同様)、思想をイザヤと同じうする、もしくは近しくする、いわば<イザヤ学派>とでもいうべきグループのなかにいた無名の預言者の筆に成る書物とされます。それは、まだユダが捕囚であった時代でありました。おそらくは東から新たにキュロス王率いるペルシアが台頭してくる直前の時代の作物でありましょうか。
 一昨日まで読んできた「イザヤ書」ではバビロニアのみならずエドムなど諸国への審判がたびたび語られましたが、「第二イザヤ書」では審判の矛先は専らバビロニアとなる。そうしてキュロス王の登場が、かれが主により油注がれた存在として預言される。こうした点から「第二イザヤ書」はバビロニア崩壊とそれに伴うキュロスによる捕囚解放、いうなれば捕囚民ユダにとっての希望が高らかに、明快に宣言された書物なのでもあります。そうした意味では、一種清々しいまでの明るさに彩られた部分といえるかもしれません。



 経過は順調である。今日は、どうしても済まさねばならぬ所用に迫られて外出したのですが、あの忌々しいピンク色の斑点に悩まされたり、人目を避けたりする必要も殆どなく、ちょっとした寄り道までしてみました。よかった。わたくしはまだだいじょうぶだ。このまま完治してくれればよい。今日、駅からの帰り道にセミの声を聞いた。再び夏らしい日が戻ってくるという。そうなる前に症状が悪化し、治癒にまで至ったことを<さいわい>と思うべきかもしれない。
 いまの会社に入ってまだ一口もアルコールを口にしていないんだ、実は。明後日に待ち構える最初の関門を無事くぐり抜けられたら、祝盃も兼ねて一口、二口、グビリ、といこうと思う。そうして、体がなんとか元に戻ったことを感謝しつつ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132を、就中第3楽章を聴けるようになったら良い。早くその日が訪れるのを、待っている。◆

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