第1025日目 〈イザヤ書第42章:〈主の僕の召命〉、〈神の勝利〉&〈捕囚の解放〉1/2with孤独な夜に、〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第42章です。

 イザ42:1-9〈主の僕の召命〉
 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。/わたしが選び、喜び迎える者を。/彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。/彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。/傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すこともなく/裁きを導き出して、確かなものとする。/暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。/島々は彼の教えを待ち望む。」(イザ42:1-4 ex;マタ12:(17)18-21)
 主なる神は天地を創造し、人に息と霊を与えた。主なる神は恵みを以て主の僕たる人を呼び、民の契約、諸国の光として主の僕たる人を立てた。見ることのできない目を開き、囚われた人の枷を解き、闇に住む人を牢獄から救い出すために。

 イザ4:10-17〈神の勝利〉
 地の果て、大海の島々に住む異邦人、海に面するフェニキアの人々、ケダルの遊牧民、エドムの都セラに住む人々。かれらはこぞってイスラエルの主なる神を讃えよ。主に向かって新しい歌を、主の栄誉を褒め讃えて歌え。
 「(主は)目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。/行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。/わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。」(イザ42:16)━━偶像に依り頼む者は甚だしく恥を受けて退く。

 イザ42:18-25〈捕囚の解放〉1/2
 主が信任を与えて遣わした僕程、目が見えず、耳が聞こえない者はいない。その目には多くのことが映る、しかし、その目はなにも見ていない。その耳には多くのことが聞こえている、しかし、その耳はなにも聞いていない。
 「主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。」(イザ42:21)
 主は重ねてこういう、曰く、━━
 「この民は略奪され、奪われ/皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。/略奪に遭っても、助け出す者はなく/奪われても、返せと言うものはない。/あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。/後の日のために注意して聞く者があるか。/奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡した者は誰か。/それは主ではないか。/この方にわたしたちも罪を犯した。/彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。/主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。/その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(イザ42:22-25)

 昨日分と今日の分は、蕁麻疹の痛みがなんとか軽くなった日に書いたものです。引用が多くなっていたり、昨日のような<訳し直し>が発生したのはそのせいかな。
 正直なところ、<主の僕>がメシアを指すのか或いはキュロスを指すのか、判断しかねる部分があります。「捕らわれ人」や「闇に住む人」を素直に受け取れば<主の僕>はキュロスということになりましょうが、冒頭で引用したイザ42:1-4がマタ12:(17)18-21で援用されているのを考えれば、やはり<主の僕>とはメシアを指しているのか。否、もしかすると、第1-4節でいう<主の僕>と第5-7節でいう<主の僕>は別個の存在なのかもしれない。
 ━━どうなんだろう?



 ちかごろはあまりないことだが、家の誰もが寝静まった夜中、どれだけ耳をすませてみても町の音がしない夜中に、ふとした拍子に目が覚めて、いつまでこの汚濁末法の世を生き、出口の見えないトンネルを歩き続けてゆかねばならぬのかを想像して、突然恐怖に駆られ、目蓋を再び閉じることがそのまま生涯の終わりのように思えて身震いすることがある。幼きラキシスの言葉、「百年も千年も一万年もひとりぼっちだなんてさみしいと思うの。ラキシスがいればさみしくないわ。ひとりより2人の方がしあわせよ」が思い出されて、胸が、この世のものと思えぬ存在によって骨が軋むようぐらい強い力で圧迫されるのを感じる夜があった。むろん、いまも、これからもあるだろう。一人より二人の方が……、◆

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