第1027日目 〈イザヤ書第44章:〈イスラエルの贖い〉、〈無力な偶像〉&〈キュロスによる解放〉他withS.キング短編集『夜がはじまるとき』読進中……。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第44章です。

 イザ44:1-8〈イスラエルの贖い〉
 わが僕ヤコブへ。わが選びし民イスラエルへ。わたしは渇いた大地へ水を与え、流れを与え、潤す。わたしの霊をあなたの子孫へ注ぎ、わたしの祝福をあなたの末に与える。かれらは川のほとりの柳のように育ってゆく。そのうちの或る者はヤコブを名乗り、イスラエルをその名とする。
 イスラエルの王なる主、イスラエルを贖う万軍の主はいう、「わたしは初めであり、終わりである。/わたしをおいて神はない」(イザ44:6)と。
 わたしに並ぶ存在があるならば、わたしがとこしえの民即ちイスラエルと契約を結んだその日から、これから起きる出来事に至るまでを、さあ、わたしに語って聞かせてみよ。わが民よ、わたしが贖ったとこしえの民よ、恐れたり怯えたりするな。もうわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなた方はわたしの証人である。

 イザ44:9-20〈無力な偶像〉
 偶像を拵える者はみな愚かで、無力である。そんな者を慕うて何になろう。
 職人は木っ端から偶像を製作する。自分たちが生活するさまざまな場面で木材は遣われる。飲食や暖を取ったりするためだ。彼らはその残りを使って、神に似せて姿を美しくした偶像を作り、それにひれ伏して祈る。
 かれらはその愚かな行いに疑問を抱くことがない。反省することも、顧みて己を自戒することもない。むなしいことだ、愚かなことだ。かれは自分の右手の魂を救うことができず、また、そのことに些かの疑いも持たない。
 「彼は灰を食らい/惑わされた心は、その道を誤らせる。」(イザ44:20)

 イザ44:21-23〈イスラエルの贖い〉
 わが僕ヤコブよ。わが選びし民イスラエルよ。あなたを創造して僕としたわたしを忘れるな。このことを、━━
 「わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。/わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」(イザ44:22)
 主はヤコブを贖い、イスラエルによって輝きを現した。天よ、地の底よ、自然よ、主の行為を喜び、歌い、歓声をあげよ。

 イザ44:24-28〈キュロスによる解放〉1/2
 イスラエルの贖い主、万物の創造主は、斯くいう。主は、僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。エルサレムは再び人の住む場所となり、神殿には基が置かれる。廃墟となったユダの町々は再び興される。
 イスラエルを贖う聖なる方にして万物の創造主は、キュロスに向かって斯くいう。わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と。

 これまでの贖いと戒めの集大成のように思えて読んだ章です。第1-23節に即していえば、キュロスの名が具体的に登場するに先立って、いわば交通整理を図った箇所のように感じられます。



 いろいろあるけれど、身を屈めていればいつか嵐は通り去る。でも、仕事上必要なこと以外は殆ど人と話さないで済むから、却って楽ちんなんだ。肝心なのはわたくしがここでずっと働いていたい、と思う気持ち。がんばって給料を上げてゆき、立場を上にしてゆき、ここで働くに必要なスキルと見通しを付けられるようにすること。同僚に恵まれたかわからないけれど、良い人もいればそうでない人もいる。会社だから仕方ないけれど、せめて同じチームなら挨拶ぐらいはしようぜ。きっとこの人たち、ここ以外では働けない。そんな風に心のなかでつぶやいてみる。むろん、そうでない人の方が圧倒的に多いけれど……。白地のなかにわずか数粒と雖も黒い点は目立つのだよ、わが相棒ドクター・ワトスン。
 それはともかく。
 キングの短編集(『夜がはじまるとき』)は無事に最後の一編に辿り着いた。「どんづまりの窮地」を今日の帰りから読み始めました。「ある意味これはキングが書いたものの中で最高に恐ろしい一篇と言っても過言ではないかもしれない」(P328)と、巻末解説でcocoが書いているような作品はどんな作品なのだろう。これは楽しみにしていた一編でもある。感想などその折にお話ししよう。たぶん、次の休み(明日!)かその翌日にはご報告できるだろう。
 昨日は「聾唖者」の感想を書こうとして疲れが招き寄せた睡魔に屈してそれはかなわなかった。簡単なものになるが、今日それを果たそうと思う。
 「聾唖者」は、地方まわりのセールスマンが妻の不貞と横領を、偶然乗せた聾唖のヒッチハイカーへ問わず語りに聞かせるというもの。正直なことを申せば、本筋の結末はたやすく予想できた。予定調和といえば聞こえは悪いが、最近のキングの短編を読んでいるとこんなケースが偶さかある。自分の読みを誇りたいわけでも、嘆きをぶちまけたいのでもない。予想した結末に連れてゆかれてもなおそれを払拭するような感銘を、わたくしは最近のキングの短編から受け取るのである。
 この感銘にどんな言葉を纏わせればよいのか悩むのだが、それはおそらく、物語の外側から、読み終えたあとにじわじわと襲いかかってきてわが身を心もろともすっぽりくるんでしまうような類のものである。ガッシ、と魂を摑まれていつまでも心のどこかにその残像が残り、なかなか印象の消え去らない作品にはときどき出会うことがある。世評に高いか否かにかかわりなく、だ。「聾唖者」はわたくしにとってそんな作品である。「ニューヨークタイムズを特別割引価格で」もそうであったし、「彼らが残したもの」もそうであった。今回たまたま最新の事例となったのがこの「聾唖者」であった、ということだ。
 前述したようにそのキングの短編集、現在は最後の一編を読んでいる。明日か明後日には読了できるはずだ。明日は秘かに送迎バスの停留所のそばにある喫茶店に立ち寄ってみよう、と企んでいる。蕁麻疹以後、初めて飲むコーヒーだ。本当はいつものスタバへ行って馴染みの人々の顔を見たいのだが、初めて送迎バスで帰ってきたときに窓のなかから見かけて以来、休みの前日に行ってみたい、と望んでいた喫茶店だ。ここが良い店なら週に二、三度ぐらい寄って本を読んだり聖書のノートを取る場所にしたい、と考えてもいるのだ。明日はここでコーヒーを飲みながら、このキングの短編集を読了できるようにしたい。それにふさわしい場所でありますように。それにふさわしい作品でありますように。わたくしは斯く願う者である。◆

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