第1032日目 〈イザヤ書第49章1/2:〈主の僕の使命〉with燻されていた気持ちを慰撫する小説、たとえばウッドハウス。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第49章です。

 イザ49:1-9(1/2)〈主の僕の使命〉
 私は主により、その名を呼ばれた者。主は私にこういわれた、あなたはわたしの僕であり、あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
 私はこれまでの人生をむなしく、うつろに過ごしてきた。が、思い直せば、私の裁き手は主であり、私の働きに報いてくださるのも主なのである。こうして召命されたのだから、私は主の御目にかなった者なのだ。主の御目に私は重んじられているのだ。
 その主がこういわれた、━━主は私を僕としてヤコブの諸部族を立ちあがらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる、と。それだけではない。主は私を国々の光とし、救いを地の果てまでもたらす者とする、ともいわれた。
 主はこういわれる、曰く、━━
 「わたしは恵みの時にあなたに応え/救いの日にあなたを助けた。/わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。/捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。」(イザ49:8-9)

 「私」とは即ち、主の僕として召命された者、第二イザヤを指す。引用したなかにある「わたしは恵みの時にあなたに応え/救いの日にあなたを助けた」は捕囚解放をいいます。
 本章は珍しく(とさんさんかは思うのですが)語り手の感情が表に現れたところでもあります(イザ49:4)。その感情をベースにしてかれは<反省>から<使命の気附き>を経て、そうして<自覚>へと至るのであります。
 楽屋裏をお話しすれば、ノートの作成にちょっとばかし手こずらされた章でもあります。



 更新が11時間超もズレこんだことを深謝いたします。いろいろあって……。悲しみなんて感情が起こらない世界であったらいいのにね。それはともかく、今後はこんなことがないように自分を律するつもりであります。
 さて。こんなときは故エリザベス皇太后ではないが、ウッドハウスの小説を読むに限る。寝床に入って一、二冊を読み終わる頃には万事オールライト。━━勿論、そこまで単純ではないけれど、燻されていた気持ちは慰撫されていること間違いなし。そうであってほしい、と願う。それこそが物語の治癒力。それは<回復>と言い換えてもよいでしょう。
 その回復について、ウッドハウスと同じ英国の作家トールキンはいう、「回復とは(健康の回復と再生とを含めて)とりもどすこと━━曇りのない視野をとりもどすこと」である、と。かれの場合、回復を可能にするのは妖精物語でありますが、それは些細な事柄。
 真の治癒力を内包する小説はすべからく広義のファンタジーの要素を含んでいる。ウッドハウスはその一例であります。プロレタリア文学を読んで「曇りのない視野をとりもどすこと」を取り戻すことはできません。少なくともわたくしはそこから<回復>や<再生>を与えられたことは一度もないし、況や<治癒力>を期待することなど夢のまた夢であった。
 が、ウッドハウスにはそれが可能だ。贔屓の引き倒しめいた発言で申し訳ないけれど、事実、わたくしはウッドハウスを読んで慰撫されること大なのだから仕方ない。これは、たとえばキングの小説なんかでは(なかなか)得られぬ現象である。トールキンとフィッツジェラルド、シュルツ、クリスティ、ドイルぐらいか。悲しみに暮れたときに読んで、そのたびに心慰められる作品というのは。
 でも、そんな感情の時に読みたくなる小説なんて、本当はない方がいいのかもしれないな、とも思う。困ったものです。◆

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