第1042日目 〈イザヤ書第57章:〈神を畏れぬ者〉2/2&〈へりくだる者の祝福〉withドストエフスキー読書の目算〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第57章です。

 イザ57:1-13〈神を畏れぬ者〉2/2
 わたし即ち神を畏れぬお前たちは、神を信じ敬う人が失われても、誰一人として心にかけなかった。かれは周囲の無理解と蔑みに苦しめられて死んだけれども、いまかれには平和が訪れ、横たわって真実に憩うている。
 神を畏れぬ者、神へ背く者どもよ。お前たちの身は骨の髄まで汚れている。偽りのぶどう酒、偽りの献げ物をわたしは許さない。お前たちは快楽に耽り、わたし以外の神をあがめ、ことごとくわたしを顧みようとしなかった。
 お前たちはいったい誰に怯えているのか。誰を恐れて、欺くことばかり考えているのか。どうしてお前たちはわたしを心に留めようとしなかったのか。わたしが永遠に沈黙しているとでも思うたから、わたしを畏れようとしないのか。お前たちが信じてあがめ、頼みとする偶像など、わたしの前には無力だ。
 「助けを求めて叫んでも/お前の偶像の一群はお前を救いはしない。/風がそれらすべてを巻き上げ/ひと息でそれらを吹き去るであろう。/わたしに身を寄せる者が、この地を嗣業とし/わたしの聖なる山を継ぐであろう。」(イザ57:13)

 イザ57:14-21〈へりくだる者の祝福〉
 わたしの民のために道を整えよ。わたしはかれらの罪ゆえに、かれらから顔を隠した。その間もかれらは背いて罪を重ね続けた。その結果として、かの地から切り離された。が、大地が休んでいた間に、かれらのなかにも嘆き悲しみ、へりくだる人々が出てきた。慰めを以てかれらを回復させよう。唇の実りを想像し、実りを与えよう。近くにいる者にも遠くにいる者にも、平和を与えよう。わたしはかれらを癒す。
 「わたしは高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザ57:15)

 好対照のメッセージが告げられた章であります。一方で神の前にへりくだる者を讃えて祝福し、一方で神を疎んじてないがしろにする輩を一蹴する心構えが語られる。これまでにも何度となく繰り返されてきたメッセージでありますが、こうして並べられてみると、イスラエルの神のまったくぶれることなき信念を改めて感じられ、その強さと慈悲深さ、恐ろしさに心身が震える思いをするのであります。



 いまはドストエフスキーを休んで他にいろいろ手を出しているが、だいじょうぶ、そのうちに戻りますから。『未成年』はストレートな構成と明快な語り口ゆえに読みあぐねることはないのだけれど、季節が夏になり集中力を削がれ、中途で読むのを止す羽目になったのはやはり残念であった。
 が、秋になりドストエフスキーに戻れば、そのまま次の夏を迎える前にこのロシアの文豪の作品は概ね読み終えることが出来よう。未読の長編は『未成年』を除けば『カラマーゾフの兄弟』と『虐げられた人々』のみ。これに続くのは2冊の短編集ぐらいだ(『作家の日記』は正直悩んでいるところである)。
 終着のその日が訪れたらば、たとえ本ブログが聖書の特定の書物を読んでいたとしても中断して、その旨そっとご報告し、ひとり快哉を叫び、祝いの酒宴を催すとしよう。おそらく……と、さんさんかは考えるのだが、おそらくその日は旧約聖書を読み終わる日が具体的に視野に入ってきた時分のことであろう。乞うご期待。◆

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