第1047日目 〈イザヤ書第62章:〈シオンの救い〉with『物語 エルサレムの歴史』という本を買いました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第62章です。

 イザ62:1-12〈シオンの救い〉
 シオンは主の御手のなかで輝かしい存在となる。諸国民は主の正しさを見、諸国の王たちは主の栄光を仰ぐ。シオンは主の口が定めた新しい名を以て呼ばれるようになる。主はあなた、即ちシオンを望み、花嫁とする。
 エルサレムの城壁の上に置かれた見張りはけっして黙してはならない。また、エルサレムの再建が終わり、かの都を全地の栄誉としてくださる日まで、主の沈黙を招いてもならない。主は自分の名誉にかけて、もう二度と、敵の手にエルサレムを渡し、異邦人を住まわせない、と誓ってくれた。穀物を育てて刈り入れた者はそれを食べて主を讃え、ぶどうを育てた者はそれでぶどう酒を造り、聖所の庭でそれを飲め。
 「見よ、主は地の果てにまで布告される。/娘シオンに言え。/見よ、あなたの救い主が進んで来る。/見よ、主のかち得られた者は御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。/彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。」(イザ62:11-12)

 新しいエルサレムの誕生を謳った章ですが、わたくしは当初、それが「ヨハネの黙示録」に記される<新しいエルサレム>(黙21:10)と思うていました。しかし、それはどうやら誤りであるかもしれない、とノート作成のために改めて本文を読み返しているうちに気が付いた。これはむしろ、ペルシアから荒廃した王都へ帰還したユダの民が、再びエルサレムを再建し、第二神殿を築くことを予告しているのではないか、と思うたのです。教会や聖書学者たちはどう教えているのでしょうか。ただわたくしとしては自分が最初に思うたことを捨て去るのは難しく、漠然とですが、両方の考えが併存するのもアリかもしれない、と考えておるところです。
 「第三イザヤ書」に入って一週間になりますが、殊ここに至って「第三」は「第一」、「第二」以上に慈愛(恵み)と救いの色合いが少しく濃くなりまさり、また、その情が細やかになってきているように思えます。気のせいでしょうか?



 午後から宵にかけての豪雨は凄まじかったですね。街の様子を観察するに、お葬式や法事の集中する日だったようで、喪服や黒のスーツの方々が目立つ日でした。あいにくのお天気で、というてよいものか迷います。さんさんかの母も田舎へ法事で出掛けました。
 わたくし? 送迎バス&折りたたみ傘の用意でそれ程非道くは濡れずに済みましたが、いちばん雨の勢いが激しかった午後四時頃に帰宅した同僚はずいぶんと大変な目にあったみたい。なにはともあれ、これをお読みの方々で今日(昨日ですか)の雨にあたって風邪を引いた、なんて方が出ないことを祈っております。
 帰り道、新幹線の駅で途中下車したさんさんかは本屋へ寄りました。かねてから手許に置いておきたいな、と考えていたイスラエル、乃至はエルサレムの歴史書もしくは地誌を探すため。けっきょく笈川博一著『物語 エルサレムの歴史』(中公新書)を━━有川浩『別冊 図書館戦争 2』(角川文庫)といっしょに━━購入し、帰宅してからつい先程までぱらぱらと目を通していたところです。これは読み応えがあり、かつ、本ブログ執筆に際して支えとなるところ大である。久々に本に関して、良い買い物をした、と思えたことであります。◆

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