第1158日目 〈エレミヤ書第44章:〈エジプトにおける預言〉2/2withわたくしが鏡花の花柳界ものを好む理由。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第44章です。

 エレ44:1-30〈エジプトにおける預言〉2/2
 タフパンヘスやメンフィス、上エジプト地方の町々へ寄宿したユダヤ人に宛てた主の言葉に曰く、━━
 お前たちは自分たちの犯した罪、父祖たちの犯した罪によって、わたしの怒りを燃えあがらせ、家も国家も、同胞(はらから)も家畜も失う羽目になった。わたしの言葉に聞き従わなければこうなる、と身に染みてわかっているのに、なぜいま再(ま)たわが言葉に従わず、かつての奴隷の地エジプトに戻って寄留し、異教の神々の偶像を作ってそれに香を焚いたりするのか。なぜそのようなことをしてわたしを怒らせ、自分を滅ぼし、世界のあらゆる国々の蔑みと恥辱の的に自らを貶めるのか。
 「ユダの国とエルサレムの巷で行われたお前たちの父祖の悪、ユダの王と王妃たちの悪、また、お前たち自身と妻たちの悪を忘れたのか。今日に至るまで、だれひとり悔いて、神を畏れようとはせず、またわたしがお前たちと父祖たちに授けた律法と掟に従って歩もうとはしなかった。」(エレ44:9-10)
 それゆえにわたしはお前たちに災いを降し、エジプトに寄留するユダをことごとく滅ぼす。エジプトに寄留しようとやって来るユダを取り除く。かれらはみな、エジプトで滅びる。かれらは皆、剣と飢饉で死に絶え、呪いと恐怖、蔑みと恥辱の的になる。ユダの国とエルサレムの都がそうやって滅びたように。エジプトに寄留するユダの人々が難を免れて故地へ帰ることはない。少数の、難を逃れて生き残った一部の人々を除いては。
 ━━と、主はいった。
 が、タフパンヘスやメンフィス、上エジプト地方の町々に寄留するユダヤ人たちはこれに憤り、口々にエレミヤを非難した。━━あなたが主の名前を借りて伝えたその言葉に聞き従う者は、われらのなかには一人もいない。われわれはこれまで通り、天の女王に香を焚き、ぶどう酒をささげる。ユダを治めていた王様や王妃様だってしていたことだ。王様たちがこぞって天の女王に香を焚き、ぶどう酒をささげていた頃、国は安泰だった。しかしそれをやめたら、国は揺らぎ、やがて滅びた。それに男たちが献げ物をささげている間、その妻たちも天の女王にパンを供え、ぶどう酒をささげてきたのではなかったか。
 ……かれらに向かってエレミヤは、お前たちが天の女王にしたことを主が知らず、心に留めていないなどと思うな。お前たちが行ってきた悪行や忌み嫌われるべき行為ゆえに、今日のような災いが臨んだのだ。お前たちはこれまで通り、天の女王に香を焚き、ぶどう酒をささげる、と誓い、その誓いを実行する、といった。そうするがよい、誓いを果たすが良かろう。
 聞け、主はこういっている、主はその大いなる御名にかけてこう誓う。「エジプト全土のユダの人々の中に、『神である主は生きておられる』と言って、わたしの名を口に唱えて誓う人はひとりもいなくなる。見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。幸いを与えるためではない。エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。剣を逃れてエジプトに地からユダの国へ帰還する者の数はまことにわずかである。そのとき、エジプトへ移って寄留したユダの残留者はすべて、わたしの言葉か、彼らの言葉か、どちらが本当であったかを悟るであろう。このことこそ、わたしがこの場所でお前たちを罰したことのしるしとなるであろう、と主は言われる。そしてお前たちに災いを告げたわたしの言葉が実現したことを知るようになる。」(エレ44:26-29)
 ユダの最後の王ゼデキヤをバビロニア王ネブカドネツァルの手に渡したように、わたしはファラオ・ホフラを、その命を求める者の手に渡す。

 ナイルデルタ東端のタフパンヘスからエジプト北境の町ミグドル、或いはナイル川流域の町メンフィス(カイロ南部約20キロ)と上エジプト地方というエリアに散在して寄留するユダヤ人たちに告げた、イスラエルの神の滅びの預言。これが約18年後に実現してエジプトもバビロニアの支配圏となったのは昨日、端的に述べた通りであります。これは王下24:7,エレ46:2に記録されたことでもあります。
 ファラオ・ホフラ(エレ44:30)はエジプト第26王朝第4代の王。在位は前589-570年。ファラオ・ネコの次の次の王であります。エレ37:5にてエルサレム包囲中のバビロニアを撤退させたエジプト軍の指揮をしていたのはかれである、といわれています。その後、ホフラは親族である将軍アマシスに王位を簒奪、殺害されました。



 泉鏡花の作物は怪談ばかりが持て囃されております。理由の一端は、怪談作家・鏡花を推進する側が、鏡花が好んだ花柳界を、その世界の女性たちを知ることのできない人たちだからでもありましょう。
 お茶屋遊びも知らぬ、芸者に酌をさせたこともないいっぱしの近代文学研究者、民俗学研究者が多すぎますよ。荷風や鏡花を語るに花柳界を知らないって、致命傷ではありますまいか。そんな致命傷持ちたちが自分たちの一知半解ぶりを棚にあげて、徒党を組んで幅を効かせて文学をいじくり廻すけったいな時代の、その最大級の犠牲者が鏡花である、とは、わたくしの言い過ぎかもしれません。
 かつて大学生でさえ読んでいた花柳界ものが、今日の“怪談作家”鏡花を愛でる人たちに受け入れられよう筈もありませんが、わたくしはそれゆえもあり却ってこのジャンルを偏愛する、時代錯誤を承知している一人であります。
 無論、わたくしとて幻想と怪異の作品をきっかけに鏡花へ惚れこんだ者でありますから、それらを低く見るつもりは一切ない。
 が、それでもわたくしが花柳界ものを愛でるのは、やはりその世界━━インターネットと携帯電話が生活の隅々まで浸透した、と錯覚する21世紀の日本の片隅に確固として息附く、いまや〈粋〉とか〈雅〉とか〈伝統美〉なんて言葉で懐古趣味の握玩物みたく扱われている世界を若いときに知り、そこでの遊びに身をやつした経験があるためか。
 為、鏡花を読むといえば一部の幻想と怪異の作品を除くと、花柳界に材を取った作品を専らチョイスしてしまうのもやむなきことであり、もはや骨まで染みついて終生治る様子もない軟派のせいかもしれない。
 今夜、かつて花魁をしていた友どちと久しぶりに会い、小料理屋で食事をしながらそんな話になり、斯く思うたことを、今日のエッセイみたいな感じで書いてみました。◆

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