第1185日目 〈哀歌第3章:〈第三の歌〉withTSUTAYAで借りたジャズが3枚、あったでな〉 [哀歌]

  哀歌第3章です。

 哀3:1-66〈第三の歌(アルファベットによる詩)〉
 異国バビロンの民のなかにあって、イスラエルは自分たちの神の信仰へ立ち帰る旨を表明する。それは宣言ではなく、吐露だ。捕囚の地でかれらは悔悛した。バビロンの川の畔でうたわれた歌と同じで、望郷と思慕、悔恨と信心の復活が思わず言葉となって唇をついて出たような、虚飾なき真実の想いであったか。
 望みなき敵地にて頼るものなきかれらの心に、主への畏怖、依り頼む想いが改めて起こり、より強きものへと新生するのは必然である。かれらの神はそれを見越していた。嗣業の民の共同体を、バビロニアを遣わして一旦は破壊させ、かの地へ捕囚となさしめたのは、神を敬い畏れてその道から外れないよう歩ませるための計画であった。
 「わたしの魂は平和を失い、/幸福を忘れた。/わたしは言う/『わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう』と。/苦渋と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを/決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈みこんでいても/再び心を励まし、なお待ち望む。/主の慈しみは決して絶えない。/主の憐れみは決して尽きない。/それは朝ごとに新たになる。/『あなたの真実はそれほど深い。/主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。/主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。」(哀3:17-25)
 「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。/主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。/人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。」(哀3:31-33)
 ――が、それでもかれらは、自分たちの神にバビロニア滅亡を願ってやまない……(哀3:58-66)。

 本文中にも記したように、これは捕囚となってバビロンへ連行、そこに住むこととなったユダの民が悔悛を謳った章です。それは「哀歌」にしては比較的長くなった引用箇所からも明らかでありましょう。
 わたしはあなたを想って、昼も夜も川のように涙を流しています。休むことなくその瞳から石のような涙を流しています。わたしの思いを、あなたを望む心を、どうか信じてください。わたしはあなたを待ち望みます。だから、わたしのところへ来てください。わたしはあなたに偽りなき愛を、代々にわたって捧げます。あなたの御心をわたしは信じます。
 読んでいて、詩137〈バビロンの流れのほとりに座り〉を想起させる一章でもありました。シオンを想ってわたしは泣いた、かれらはわたしにシオンの歌をうたえという、しかしなぜそんなことが出来ようか、異教の地で主のための歌をうたうなど?
 「鋼のように固く、絹のようにやわらかな信仰は、捕囚を経験することでより強く、信念に満ちたものとなった。逆境のときに抱く信仰程、心をたくましくするものはない。それが哀しみに裏打ちされたものであるなら尚更だ。」(第0839日目〈詩編第137篇:〈バビロンの流れのほとりに座り〉より)



 TSUTAYAで借りたジャズを聴いている。ウェザー・リポート『8:30』とチック・コリア『リターン・トゥ・フォーエヴァー』、ハービー・ハンコック『ヘッド・ハンターズ』。
 ようやく聴けた、という感慨と、教えてもらえてよかった、という感謝がわたくしの胸の奥から噴きあげる。なにを今更? ジャズについては幼稚園並みなのだから、勘弁しておくれ。
 ウェザー・リポートは雑誌に載っていた或る小説で知り、その素敵な扱われ方がまだ10代の中葉にいた自分にはとてもお洒落に思えたっけ。その小説については本ブログでずっと前に触れた覚えが……ある。いつだったっけ?
 チック・コリアとハービー・ハンコックは以前からジャケット写真は目にして記憶していたが、アーティストがわからず、そのまま何年も放置していたもの。過日にちょっと触れた牧野良幸氏の本に紹介されていたことで、ようやく(迷いなく)聴くことができた次第だ。
 この三枚、iPodに入れて、しばらくはヘヴィー・ローテーション状態になりそうです。
 そうそう、ヘヴィー・ローテーションといえば、……。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。