第1187日目 〈哀歌第5章:〈第五の歌〉with明日はMET/ヴェルディ《仮面舞踏会》を観に行けるかなぁ。〉 [哀歌]

 哀歌第5章です。

 哀5:1-22〈第五の歌〉
 主よ、と、ユダの生き残りは自分たちが忘れかけていた神に語りかけ、祈る。主よ、わたしたちを立ち帰らせてください、あなたの御許へ。わたしたちに降りかかったこの災難へ目を留め、わたしたちへの嘲りに心を留めてください。
 われらの嗣業は他国民の嗣業となり、われらの家は他人の住居となった。親兄弟や伴侶も子もないユダの生き残りは、あてどなく遠近を彷徨う。以前は自分たちのものであった水や作物、資材も、いまでは相応の代価を支払わねばならなくなった。いまやわれらは行動を束縛された。休みなく労働が繰り返される。
 われらの父祖はその昔、自らの分を弁えずエジプトへ、アッシリアへ、その手を伸ばして驕った。いま子孫のわれらはその咎を負う。かつての奴隷がいまわれらを奴隷として使役する。処女や人妻は犯され、子供や若者はきつい肉体労働を課される。日々の暮らしからは楽しみが奪われ、若者の音楽は絶えた。踊りは喪の嘆きに取って代わった。
 「いかに災いなことか。/わたしたちは罪を犯したのだ。/それゆえ、心は病み/この有様に目はかすんでゆく。」(哀5:16-17)

 「主よ、御もとに立ち帰らせてください。/わたしたちは立ち帰ります。/わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」(哀5:21)

 いつまで、わたしたちを忘れていらっしゃるのですか?
 いつまで、斯様に果てなく見捨てておかれるのですか?

 沈鬱、悲痛な雰囲気のなかで「哀歌」は幕を閉じる。
 正直なところを申せば、この「哀歌」ほどノートを作り難かったものはない。先にも述べたように、「哀歌」は一種の変奏曲だ。一つの主題が技巧を駆使して変奏されてゆく。
 ――主よ、わたしたちを見舞ったこの災難に目を留め、わたしたちを救ってください。わたしたちはあなたに立ち帰ります。もうあなたを忘れません。そうしてわれらを苦しめるこの国に(われらのとき同様)災難を与えてください――
 これが巧みに表現を変えて5章にわたって繰り返される。劇的、といえば聞こえは良いけれど、それは裏を返せば、単調、という揶揄にもつながろう。
 わたくしの場合、クラシック音楽とのつながりから比較的退屈は感じなかったけれど、それでもあまりの一本調子にときどき溜め息を吐いた。一日一章という原則を放棄して、「哀歌」という書物だけでノートを構成させるべきであったかな、と嗟嘆したこともあった。いまだからこそいえますが、「哀歌」開始直前まで本気でそう考えていたのです。
 この書物への親近さという点で、キリスト者とそうでない者では想像以上に乖離したものがあるように思われてなりません。
 「哀歌」はタリスらの音楽あってこそ文学性とその悲劇的なる性格を保持できる、と、わたくしは信じて疑わぬ者であります。



 一晩経過して、風邪も少しばかり良くなってきたみたい。すこぶる安心。この調子なら明日は予定通り、先月METで上演されたヴェルディ《仮面舞踏会》の映画を観に行けそうだ。明日で上映終わりなんですよね。行けるかなぁ……。
 明後日からは同じくMETの《アイーダ》が上映予定。まったくもう、ヴェルディ・イヤーだからってさぁ。困っちゃうな、もう。序にいえば、2週間ほど上映してもらえると社会人には幸いなのですがね。
 いや、それにしても風邪気味のとき寝床で読むマッケンはなかなかの迫力ですね。夢にも見て魘されちゃいましたよ。読んだのは、平井呈一のマッケン集成で「生活の欠片」と「緑地帯」の二編。いや、腕が疲れたね。これを、シューベルトのD.960ピアノ・ソナタ第21番(遺作)とD.911、即ち《冬の旅》を繰り返し聴きながら、読んでいました。◆

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