第1235日目 〈エゼキエル書第23章:〈オホラとオホリバ〉2/2with未だ流れ続ける血を止める方法〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第23章です。

 エゼ23:36-49〈オホラとオホリバ〉2/2
 人の子よ、オホラとオホリバに告げるがよい、と、主がわたくしにいった。彼女らは姦淫を繰り返し、偶像を作ってそれを崇めた。それだけに留まらず、聖所を汚し、安息日を汚した。それも自分の息子、娘を偶像にいけにえとしてささげたその日に。これが行われたのは、わたしの家のなかである。
 オホラとオホリバは遠方の地より男らを招いた。男たちはあたかも遊び女の許へ通うかのようにオホラとオホリバを訪ねた。二人の姉妹はかれらのために 宴を張り、淫行がされた。
 「正しい人々は、姦淫の女の裁きと血を流す者の裁きに従って、彼女たちを裁く。彼女たちが姦淫の女であり、その手が血に染まっているからである。」(エゼ23:45)
 エゼキエルよ、と主がわたくしにいった。会衆を召集せよ、オホラとオホリバに裁きを与えるために。会衆の前で彼女たちを恐怖と略奪の的とせよ。そうすることで会衆はこの姉妹を石で打ち、剣で殺す。二人の子供たちもまた殺され、家は焼かれる。斯様にしてこの地の不貞は終わりを迎える。
 「すべての女たちはこれに学び、お前たちの不貞に従うことはない。お前たちの不貞の報いはお前たちに帰し、お前たちは偶像による過ちの責めを負わねばならない。そのとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(エゼ23:48-49)

 個人的にエゼキエル書のピークこそ本章と思うています。読み応えあり、胸奥にずどん、と落ちる具合も他を圧していて、おまけに印象が鮮やかに何日も残る。これまで本書を読んできて斯く書く思わしめる章、挿話はなかったように記憶します。精々が神の顕現と出喰わした冒頭部分ぐらいか。……いま聖書をぱらぱら捲ってみたが、そうだ、細かい部分で記憶にある箇所は幾つもあるが、一章丸々ということになるとこの第23章だけであった。

 以下、昨日保留にしたさんさんかのコメントです。

 サマリアとエルサレムが並べて述べられるのは大概、両方甚だしく悪いことをしたけれど、それでもエルサレムの罪に較べればサマリアの方がましだった、という具合のものでありました。
 本章(1/2,2/2いずれも)がちょっと面白く感じたのは、サマリア(オホラ)とオホリバ(エルサレム)が常に同列にあって批難の対象となっている点です。どちらも同じぐらい悪い。“悪い”という事実が重要なのであって、その内容、その精査、その質の軽重に拘ることはありません。――これはおそらく言い換えれば、神の前に万人は平等である、ということでしょう。神の降す怒り、神がかざす正義、神が示す愛と慈しみに、所謂〈格差〉はない。これなん博愛主義といふ、か……。
 ここでわたくしは或る本で読んだことを思い出します。たしか山村修の本であったように思うが、新約聖書のなかの挿話に触れた箇所である。マタ20:1-16〈「ぶどう園の労働者たち」のたとえ〉。
 朝からずっと働いていた者も、夕暮れ前の一時間だけ来て働いた者も、報酬は等しく一デナリオン(デナリ)であった。朝からいた者たちは監督に訴えた。かれはこういった、何時間働いていようと一日の報酬は等しく一デナリオンという契約である、と。これこそキリスト教社会の基盤を成す博愛主義の芽生えであり、西洋人は聖書のこんな挿話を繰り返し繰り返し聞いてきたから、優れた社会保障制度ができあがったのだ、とその著者はいう。むろん、昨今はそうした制度にもヒビが入り、機能しなくなってきている部分もあるそうだが、それでも破綻しないのは、やはり西洋社会がこれまでに蓄積してきた経験によるものだろう。――ふと、そんなことを思い出して書いてみたのであります。



 悔恨ばかりが胸に残る。
 自らの咎により抉られた傷からは、留まることなく赤い血が迸り出ている。足許には、歩いてきた道には、黒々とした血の跡が残っている。
 未だ血は流れ落ちるのを止めようとしない。もうたっぷりと涙同様に流したはずなのに、……。
 血を止める方法を、たったひとつだけ知っている。◆

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