第1236日目 〈エゼキエル書第24章:〈火の上の鍋〉&〈エゼキエルの妻の死〉withもうわれらは日陰の身ではない;永野護『The Five Star Stories』連載再開〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第24章です。

 エゼ24:1-14〈火の上の鍋〉
 わたくしエゼキエルが捕囚としてこの地へ来てから9年目の10月10日。バビロニア王ネブカドネツァルがわが故国ユダの都エルサレムへの攻撃を開始した。同じ日、主の言葉が臨み、反逆の家イスラエルに“火の上の鍋”の喩えを用いてエルサレム攻撃を語れ、といった。わたくしはそうした。
 お前の不貞をわたしは清めようとしたが、無理だった。だからわたしはお前の汚れはわたしの憤りが収まるまで清められることはない。主であるわたしがこれを語り、実行する。惜しむことも憐れむこともなく、お前の背きに従ってわたしがそれを裁く。

 エゼ24:15-27〈エゼキエルの妻の死〉
 主がいった、エゼキエルよ、わたしはお前の目から喜びを奪う。代わりに、悲しみと、哀惜と、慟哭を与える。嘆いたり、泣いたりしてはならない。涙流すことなく、声あげることなく、悲しめ。喪に服したり、口髭を覆ったり、嘆きのパンを食べたりしてはならない。
 ――翌る朝、わたくしの妻が逝った。わたくしは主が告げた通りにした。すると人々が寄り来たって、あなたの行動がわれらにどんな意味を持つのか教えてほしい、と訊いた。わたくしは次のように、主の言葉をかれらに教えた。曰く、――
 「わたしは、わたしの聖所を汚す。それはお前たちの誇る砦であり、目の喜び、心の慕うものであった。お前たちが残してきた息子、娘たちは、剣によって滅びる。わたしがしたように、お前もするようになる。(中略)お前たちは自分の罪ゆえに衰え、互いに嘆くようになる。エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。すべて彼が行ったように、お前たちもするであろう。すべてが実現したとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(エゼ24:21-22,23-24)

 「人の子よ、わたしが彼らから、その砦、栄光の喜び、目の喜び、心の望みであるもの、息子、娘たちを取り去る日、その日、逃れて来た者が来てあなたの耳に告げる。その日に、あなたは逃れて来た者に向かって口を開いて語り、もはや黙しているな。あなたは彼らに対してしるしとなり、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ24:25-27)

 配偶者の死を悲しむことも大っぴらに、極普通の人のようには出来ない。陰でこっそり、涙流さず声あげず、ひっそりその死を悼め。それはそれで格好いいのかも知れないし、一種のダンディズムなのかも知れないけれど、ちょっとな……、と、やり切れぬ気持ちになるのも事実であります。
 このときの主の言葉、残酷ですよね。男は涙を見せぬもの、なんてガンダムからの引用は時期的にも気分的にもしたくない/できないのだが、そうはいっても現実と理想は別物なんだよな……。男たる者、常にハードボイルドに生きるわけにはいかないのだ。この御時世、男はとかく肩身が狭く、生きづらいんだよな。だからこそ、また密かにチャンドラーが売れ、ハメットやロス・マクが読まれ、なによりもホレイショ・ケイン様の生きざま・言動に憧れ、羨望の溜め息をわれらは吐くのだ……。
 閑話休題。
 預言者という公の立場にある以上、私情は捨てて公務に徹しよ、ということか。成る程。そうか、召命されてこれを受けるというのは、すべてを抛って主と民の間に立ち、無私の精神で両者を結び付ける、就中堕落した民の矯正と荒ぶる主の憤りを鎮めるのが職務の専らであるわけか。それによってのみ生きよ、というわけか。……やってられませんわ。いや、おいらの意見なんて、イスラエルの神なる主にはどうでもいい話だろうし、申し訳ないが、わたくし自身もそれを望んでおる。えへ。



 どうやら約束は果たされるらしい。永野護『The Five Star Stories』連載再開の件である。
 長かった、と嘆息するどころの話ではない。嘆息してみたって洩れる息もないぐらいの歳月、われらは待たされたのだ。21世紀になって今年で13年、連載期間と休載期間を比較すれば後者の方がはるかに長い(「現在の」休載は6年に及ぶ。それ以前にも合計2年分ぐらいの休載があったように記憶するが……?)のは、事情を知らぬ方が見れば驚天動地、まさしく噴飯ものであろう。連載開始から4半世紀経つのに単行本12巻(『リブート』7巻)というのには、或る意味呆れ返る。だが、――
 だが、われらはひたすら待った、待つよりなかったのだ、他の物語に浮気しようなんて気持ちは起きなかった、なぜならこれ以上にスペクタクルでファンタスティックかつエゴイストな漫画など、世界のどこを求めても存在しないだろうからだ。われらはやがてもたらされるであろう朗報を信じて――その実、アテにすることなくなかば諦め半分で、それでも作者の言葉を信じて待ち侘びたのだ。ときどき発売される関係図書をお布施代わりに購入し、読み終わればまたすぐに読み返し、解説やイラストを細部まで検分し、来たる魔導大戦の再開に備えてきたのだ。これを信者といわずになんというのか?
 しかし、作者は宣言通り、映画『ゴティックメード』完成後時間を置くことなく、あのなんでもありな稀有なる神話/お伽噺『F.S.S』の執筆を再開し、われらをさっそく裏切ってくれる気満々な、25年前と変わらぬこの人そのままな挑発的かつ信念に満ちたメッセージを新刊『F.S.S トレーサーEx.2』に寄せてくれた。
 もうわれらは日陰の身ではない。徒党を組んで、叫ぼう、“VIVE LA,F.S.S!”と。
 だが、われらはこの喜びに浮かれて用心するのを怠ってはならない、鳴り物入りで再開した『F.S.S』がいつまた先の目処が立たぬ休載に突入するかわからないからだ。
 ところで、『リブート』購入者の何人がMHのフィギュアを注文したのかなぁ……?◆