第1243日目 〈エゼキエル書第28章2/2:〈シドンへの預言〉withサティを聴きながら原稿を浄書する。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第28章2/2です。

 エゼ28:20-26〈シドンへの預言〉
 人の子よ、シドンへ顔を向けて預言せよ。わたしはこういう、――
 シドンよ、イスラエルの万軍の主がお前に立ち向かう。お前の真ん中でわたしの栄光が現される。そこでわたしは裁きを行い、自分の聖なることを示す。
 町には疫病が流行り、人々が倒れてゆく。剣が周囲から迫り来たって、町中にて人々が倒れる。死屍累々、シドンの町はそうなる。
 そのとき、かれらはわたしが主であることを知るようになる。
 もはやイスラエルを苦しめる茨も棘も臨むことはない。
 わたしはイスラエルを離散した先の国々から呼び集める。「彼らは、わたしがわたしの僕ヤコブに与えた土地に住む。彼らはそこに安らかに住み、家を建てぶどう園を植え、安らかに住み着く。彼らを侮辱する周囲のすべての人々に、わたしが裁きを行うからである。」(エゼ28:25-26)

 実はシドンにさしたる罪はなく、ティルスのとばっちりを受けただけ、というのが、正直な感想であります。イスラエルに対してシドンがなんらかの行いをした、という記述は果たしてあっただろうか。
 イスラエルの神なる主の怒り、憤りがティルスだけでは収まらず、同じフェニキア人の町、同じ交易都市というだけでとばっちりを蒙ったシドン。旧約聖書に登場する町という町のなかで最も冗談では済まされない扱いを受けた町、として記憶されるに相応しく、迷惑千万な八つ当たりをされた町、ということで、読者の胸に残る町となるでしょう。
 そのくせ、最後でイスラエルの回復と安寧を語っちゃうのですから、もはや何をか況や、という心境であります。やれやれ。わがままな神様だこと。



 最近、本ブログの原稿を書いているときは(PC浄書時)、エリック・サティを流していることが多い。次いで掛けることが多いのはラッススやヴィクトリアあたり。
 サティは一時期iPodに入れるか悩みました。ピアノ曲は案外と鼓膜を刺激して、むしろ落ち着かない気分になったり、苛立たせられたりしたので(感じ方には個人差があります)断念。借りてきたCDラジカセで夜な夜な聴いている次第です。
 〈家具の音楽〉を提唱したサティ。それらは所謂BGMの先鞭でもあった。書きながら聴いていると、すこしも作業の邪魔をしない点に今更ながら感嘆させられます。でもこれが、作曲家の望んだ聴き方なのだろうな、と伝記や文集を読んでいると思わせられたり。
 聴覚はたしかにサティを認識しているが、意識が引きずられることはない。それゆえ(?)ずっと突っこんだ聴き方もできる。摩訶不思議な音楽/作曲家。空気のような存在感を持つ、20世紀らしい音楽といえましょう(ビル・クウィスト:『エリック・サティ・ピアノ作品集』BVCW25010)。
 原稿浄書の折はサティの音楽にお出まし願うことが多くなりそうです。◆

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