第1248日目 〈エゼキエル書第33章:〈見張りの務め〉withF.シナトラ「ONE FOR MY BABY(AND ONE MORE FOR THE ROAD)」〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第33章です。

 エゼ33:1-33〈見張りの務め〉
 わが同胞イスラエルへ、主の言葉。
 わたしが或る国へ向けて剣をかざそうとするとき、その国は一人の見張りを立てる。剣が実際に臨むのを見た見張りは、警告の角笛を吹き鳴らす。それを聞いたにもかかわらず無視した者がいて、剣に倒れて血が流れたら、責任は警告を無視した者にある。剣が実際に臨むのを見たにもかかわらず、その見張りが角笛を吹き鳴らさなかったら、どうか。剣にかかって民が死に、かれらが自分の犯した悪ゆえに死んだとしたも、責任は警告の角笛を吹き鳴らさなかった見張りに帰せられる。
 イスラエルの家に於ける見張りこそ、エゼキエル、あなたである。わたしの言葉をあなたは伝える。イスラエルの家に、それを伝える。あなたが悪人に死を警告しても、かれに悪の道から離れるよう諭さなかったとしたら、自分の罪ゆえにかれが死んだとしても責任はあなたにある。わたしはあなたに血の責任を求める。逆に、あなたが悪人に死を警告し、悪の道から離れるよう諭したにもかかわらず、かれが死んだのなら、血の責任はかれ自身にあり、あなたは自分の命を救うことになる。
 「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が、その道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼ33:10-11)

 どれだけ正しい人であっても、背けば自分を救うことはできない。善行を積み、正義を旨としてきた人でも、わずかな悪、わずかな背きによって人生を棒に振り、人々からその正しさゆえに思い起こされることはない。
 悪人であっても自分の過ちを反省して立ち帰れば、かれは生きることができる。立ち帰ったかれが正義と恵みの業を行い、命の掟に従って歩くならば、かれは生きることができる。かれがかつて犯した過ちを人々が思い起こすことはない。「正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。」(エゼ33:16)
 「正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は生きる。それなのに、お前たちは言っている。『主の道は正しくない』と。イスラエルの家よ、わたしは人をそれぞれの道に従って裁く。」(エゼ33:18-20)

 第12年10月5日、バビロニア軍の攻撃から逃れ来たった人が、捕囚の地のわれらにエルサレム陥落を知らせた。その前の晩、主の手がわたくしの上に置かれて、わたくしの口を開いた。もはやわたくしは黙していなかった。
 イスラエル/ユダの地に残留する者たちへ、主の言葉、――
 お前たちはこの土地を所有する資格や権利があるというのか。掟に背き、律法に背いてばかりのお前たちに?
 わたしはいう、廃墟に残る者たちは剣に倒れる。野にいる者たちは獣の餌食となり、砦と洞穴にいる者たちは疫病の犠牲となる。わたしはかつてカナンと呼ばれたこの地を荒れさせ、この地で揮われた力を根こそぎ絶つ。すべてはかれらの行った忌まわしい所業のゆえだ。そのとき、かれらはわたしが主であると知る。
 人の子よ、人々があなたのことを噂し、話を聞こうとやって来る。あなたの口から、どんな主の言葉が語られるのかを聞こうとして。あなたはかれらに、わたしの言葉を伝える。が、かれらはわたしの言葉に従わない。「彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。」(エゼ33:31)
 「しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」(エゼ33:33)

 前半の、正しい人でもただ一つの過ちゆえに死んで思い起こされることはない、悪い人でも過ちを反省して立ち帰れば生きることができる、とは旧約聖書独特のレトリックか。以前にも同じロジックで語られた章がありました。たとえばエゼ3:16-21〈預言者の務め〉です(第1210日目)。また、表現は若干違えども、第18章もここに挙げて良いと思います。〈各人の責任〉、第1227日目が本ブログの該当箇所になります。余談ながら、さんさんかはエゼ18:27-28に朱線を引きました。それは既に当該章にて言及済み、ここではこれ以上を語るのは止めておきます。
 後半では預言者たちが主の言葉として語ってきた事柄が繰り返されます。つまり、バビロン捕囚にこそイスラエルの再建、イスラエルの回復が期待されるのであり、ユダに残ってあらゆる危難に身を曝している人たちには、滅びの前途しか用意されていない。これも、いままで繰り返し語られてきた。まったくブレていません。
 第12年10月は前587年末。エルサレム陥落は同年初秋とされます(岩波9 P140脚注)。
 最後に引用したなかにある「そのとき」とはいつを、また、なにを指すのか。エルサレム陥落は既に起こっているので、イスラエルの回復かな、と単純に思うておるのですが、どうなのだろう? 文脈上、そうとしか読めないんだけれどな……。

 エゼ33:31「彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている」、真理ですね!

 ノートも少し長くなりました。本音をいうと、2日に分けることも考えた。が、流れを断ち切るとこの素晴らしい一章の印象が散漫になりそうなので、あえてこのままお披露目しました。これをノートするためにいつものスターバックスに居坐ること、約3時間。飲んだコーヒー3杯(340円+お代わり100円+340円+α。さて、幾ら?)。いつものこととはいえ、申し訳ありません。



 ベスト盤だが久しぶりにシナトラを聴きました。いま、最終トラックの「ONE FOR MY BABY(AND ONE MORE FOR THE ROAD)」。シナトラの数ある歌のなかでこれがいちばん好きです。たっぷりとした思い入れがあるのだ。バー・ラジオのカクテルやS.キングの短編に同様、或いは類似のタイトルがありますね。◆

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