第1260日目 〈エゼキエル書第46章:〈祭りと献げ物〉2/2with三國連太郎さん逝去。この人のような、……〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第46章です。

 エゼ46:1-24〈祭りと献げ物〉2/2
 内庭の東の門について。仕事をする6日間は門を閉ざしておくこと。安息日と新月の日にこれを開け。そうして夕方まで開門しておく。この日、国の民は門の入り口で主へ礼拝せよ。定められた祝日に礼拝へ来たかれらは、北の門から入ったら南の門より出、南の門から入ったら北の門より出なくてはならない。
 君主は門の廊から入り、そこから出る。随意の献げ物があるとき、かれはいつの日であっても、神殿へ出入りできる。焼き尽くす献げ物、和解の献げ物の別なく、かれはそれを随意の献げ物としてささげることができる。君主は、祭司がそれを主へささげている間、門柱の傍らに立っていなくてはならない。かれがそこにいる間、東の門は開けておく。
 折々の献げ物については、――
 安息日には、焼き尽くす献げ物として無傷の小羊6匹と無傷の雄羊1匹を。穀物の献げ物として雄羊1匹につき麦粉1エファ、小羊についてはかれが望むだけの分量の麦粉を。麦粉1エファにつき油1ヒンを忘れずに。
 新月の日には、焼き尽くす献げ物として、いずれも無傷の雄牛の子1頭と小羊6匹、雄羊1匹を。穀物の献げ物として雄牛の子1頭、雄羊1頭につき、麦粉1エファ、小羊についてはそのとき可能なだけの分量を。麦粉1エファにつき油1ヒンを忘れずに。
 巡礼の祭りと定められた祝日には、穀物の献げ物として雄牛1頭、雄羊1匹につき麦粉1エファ、小羊についてはかれが望むだけの分量を。麦粉1エファにつき油1ヒンを忘れずに。
 朝ごとの献げ物には、焼き尽くす献げ物として無傷の1歳の小羊1匹と、穀物の献げ物として上等の小麦粉1/6エファと油1/3ヒンを。「これは、主にささげる穀物の献げ物であり、変わることのない永遠の掟である。(中略)これは、変わることのない朝ごとの焼き尽くす献げ物である。」(エゼ46:14-15)
――以上である。
 君主は自分の土地を子供へ譲ることができる。それは子供の嗣業となる。家臣へ譲ることもできる。が、家臣は退職したら速やかに、その土地を返納しなくてはならない。君主の土地は代々にわたって君主とその子供のものである。
 神域に面した北向きの部屋(ex;エゼ42:13)の西隅には、祭司たちが賠償の献げ物と贖罪の献げ物を煮たり、穀物の献げ物を焼く場所がある。また、外庭の四隅は石壁で囲われ、そのなかに石垣で四囲を廻らされた場所がある。そこで神殿にて奉仕する者たちが民からささげられたいけにえを煮る。

 来たる回復の時代に向けた、律法の再規定そうして徹底。新しいエルサレムに於ける民の生活は、<主への揺るぎなき信頼>と<主の目に正しいと映ること>を中心に営まれる。
 非才ながら一言させていただければ、わたくしは、「エゼキエル書」の真の主題は第40章から始まる一連の律法の口伝にある、と思うております。



 遅れ馳せながら。三國連太郎さんが逝去されました。大好きな俳優であり、意識を新たにしてくれる著作家でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。ご自宅のある静岡県沼津市はわたくしが幼少期を過ごした土地。それも、惚れこませる理由の一つであったか。
 俳優として惹かれ、文章に魅せられ、来し方に畏れ、出演作を可能な限りで視聴し、著書を探し求めては耽読し、すっかりこの人に惚れてしまった。かれ(って書いてしまって良いのかな)程イノセンスとルサンチマンが混濁し、人間の業を見据えようとする覚悟を決めた人物を、わたくしは見たことがない。
 児玉清氏のときは逝去の報に接してもすぐに著作を手にし、読み返すことができたのに、三國連太郎さんの場合はそれがまったくできずに今日まで至っている。いま、わたくしの机には『出逢いの哲学』と沖浦和光との対談『「芸能と差別」の真相』があるのだが……。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。