第1277日目 〈ダニエル書第7章お休みのお知らせwith映画『シルビアのいる街で』を観ました。〉 [ダニエル書]

 非常に無礼な話をする。
 本来であれば、今日は「ダニエル書」第7章を読むはずであった。が、おわかりのようにそれは果たせない。理由は、納得できる原稿が書けない、という一点に尽きる。それは内容についての納得であり、文章についての納得でもある。これを他人様にお見せできるのか? そんな小さな声が、自分の内で響いて谺する。
 ほぼ自転車操業であるのはいつもの常なれど、今回このような失態を招いたのは、ダニエル書が今日から後半戦、即ち黙示文学の領域に入ることにある。これまでは疑問に思う点こそあれど、歴史に組みこまれた個人の物語、挿話、逸話集であり、比較的容易に読み進むことができた。が、第7章に至って事態は一変した。
 わたくしの聖書力では到底太刀打ちできない。これまでも黙示文学の性質を持った章は幾つも読んできた。それらは確かに頭を捻る部分もあり、また、あまり理解が及ばず見切り発車的にノートをし、ブログ用原稿をPC入力したこともある。そういう意味ではダニエル書もまったく変わりはないけれど、読んでいて、これはもしかすると他の書物にあった黙示文学に属する、或いは性質の近しい章とは、なにかが決定的に異なっているのではないか。そう思えてならなくなってきたのだ。
 わたくしはダニエル書を面白く読んだ。その黙示的な挿話群についても、背景を知ってしまえば、成る程、と合点できる点だらけである。それは既に「ダニエル書・前夜」で申し上げた通り。
 それでも実際にノートを取るため改めて読み直し、そうして原稿へ仕立てあげる過程になると、どうもなにかが違う。なにをどう書いても、指の隙間から砂がこぼれ落ちてゆくような、或いは、(これはS.キングの言葉であったはずだが)濡れたティッシュ・ペーパーを掬いあげたときのような気持ち悪さを覚えるのだ。
 が、もはや立ち止まることはできない。進め。既に「ダニエル書」のノートは第9章まで仕上がっている。これを納得ゆくように推敲を重ねれば良いだけの話だ。しかし、時間は容赦なく過ぎ去ってゆく。しかし、そのなかでわたくしはやるのだ。
 明後日には、それがたとえ暫定になろうとも――それでも現在のノートよりは幾らかましなものにはなっているであろう――今日お披露目する予定であった第7章の原稿を読者諸兄の許へお届けしよう。わたくしは物書きなんていう結構高度な嘘つきの一人だから、いままで沢山の嘘をついてきた(そうでなくて物語なぞ紡げようか?)。が、これは確かだ。
 「ダニエル書」第7章、ダニエル書第2部の始まりは、5月7日(火)である。それまではくれぐれも本ブログのことを忘れないでほしい。作者から読者諸兄への、たった一つのお願いである。



 映画『シルビアのいる街で』は不思議な映画でした。台詞らしき台詞は必要最小限に抑えられ、むしろ舞台となる古都ストラスブールの街角にあふれる<音>に注目(?)したくなる映画でした。背景であるはずの音が人々の会話を遮り、かといってそれは邪魔をしている、という意味ではけっしてなく。むしろこちらの想像力、日頃自分のまわりにどれだけ関心を払っているか、を問われる気分になります。
 自分の前から去った女性に似た人を見掛けて思わずあとを追い、古都の入り組んだ街路をひたすらに彷徨い歩く様に、恐怖を感じるか蔑みを抱くか、或いは仄かな共感を抱くかは鑑賞者次第。そんな意味では鑑賞するわれらの器を試されるような作品です。わたくしはこれを<究極>とまではいわないけれど、個人の褪せない思い出を最大限に昇華させた、極めて上質かつストイックな恋愛映画、と思いました。これ以上は言葉を控えます。
 あなたがこの映画を観終えたあと、いつまでも残る風景はどんなものですか?
 監督・脚本;ホセ・ルイス・ゲリン、撮影;ナターシャ・ブレイア、出演;グサヴィエ・ラフィット、ピラール・ロペス・デ・アジャラ他。2007年スペイン=フランス映画。◆

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