第1302日目 〈ホセア書第1章:〈ホセアの妻と子〉with奇妙だけれども心地よい浮遊感、……〉 [ホセア書]

 ホセア書第1章です。

 ホセ1:1-9〈ホセアの妻と子〉
 於北王国イスラエル、ヤロブアム2世の御代。預言者ホセアに主の言葉が臨む。

 主の言葉に従って、預言者ホセアは姦淫の女と結婚した。ディブライムの娘ゴメルがそれである。
 夫婦の間には3人の子供が生まれた。長男はイズレエル(神が種を蒔く)、長女はロ・アンミ(わが民でない者)、次男はロ・ハルマ(憐れまれない者)、と、主によりそれぞれ名附けられた。
 主の言葉、――
 わたしは、イエフの王朝にイズレエルでの流血の罰を下す。これによってイエフの王朝は滅び、イスラエルの家の支配権を失う。もはやわたしは、イスラエルの家を憐れむことも赦すこともしない。
 が、ユダの家は違う。わたしはかれらを憐れみ、赦す。わたしの力、わたしの業によってかれらを救う。わたしはかれらの神であり、主である。
 繰り返す。イスラエルはわたしの民ではなく、わたしはイスラエルの神ではない。ゆえに憐れむことも赦すこともしない。
――以上、主の言葉。

 イスラエルとユダの対照的な神の思いが、まるで天秤に掛けるような物言いで吐露されます。これまで召命の場面から始まってきた預言書のスタイルを「ホセア書」は取りません。かれの結婚の場面から始まることもそうですが、ユダをも対象とした預言がのっけから開示される点もそうです。そんなことからも、「ホセア書」は15ある預言書のなかで一際ユニークな立ち位置を持った一書といえるかもしれません。イスラエルとユダの比較、それは単純にいえば、双方に対する主の<厳罰>と<寵愛>の思いが根底にある、と申せそうであります。
 それでも、主はイスラエルを愛すのだ。内田和彦『「聖書は初めて」という人のための本』(いのちのことば社)は「ホセア書」についてこういっております。曰く、――「不信のイスラエルに対して愛を示す神と、姦淫を犯した妻をなおも受け入れるホセア自身が重なります」(P33-34)と。
 第2章以後を読んでゆくと、それも、成程、と納得できるようになります。<愛>の本質の一端に迫った書物として、「ホセア書」を挙げるのはあながち間違っていないでしょう。
 長男がイズレエルと命名されたのは、、イエフ王朝がイスラエルの政権を握った事件に起因します。その前に国を支配していたオムリ王朝はヤロブアム2世の父イエフの手によって滅ぼされました。その場所がイズレエル。王下9-10を読むとそのあたりの出来事がわかります。「流血の罰」とはこの一件をいう。歴史は繰り返されるのです。
 イズレエルという命名は迫り来るイスラエルの運命を暗示させる――『十二預言書1』の著者P.C.クレイギの言であります(P30 新教出版社)。それは事件を喚起させる不吉な名前であったのでしょう。

 余談ながら内田の著書はわたくしが聖書を読み始める前に唯一読んだ、そうしていまも机上に置いて、息抜きしたいときや行き詰まったときに開いたりする、小さいけれどよくまとまった入門書です。
 聖書を読み迷う方がいたら、まずこれを読むと良いと思います。とても平易な言葉と文章で書かれていて、聖書という書物の成り立ちや各巻の内容、読み方や学び方などが、すっきりとまとめられています。お奨めです。



 ももクロのコンサートがそばのアリーナであったために、近くのスターバックスはももクロのファンと覚しき人たちで宵時まで席は埋まっていました。ターミナル駅という性格もあってか、その後もざわめきが止むことはなかった。
 だから、というわけではないけれど、久々にiPodを出して、ボブ・マーリィを聴きました。聖書ノートを書く際のBGMに、レゲエ・サウンドはお似合いだ(個人差があります)。すべてがどうでもよくなってくる。病みつきになります。
 LSDやスピード(古いか)なんてドラッグを服用したら、こんな気分に陥るのかな。奇妙だけれども心地よい浮遊感、ジャンキーになること必至の酩酊感。それとも、賑わう海水浴場の浜辺でビーチ・パラソルの下、汗を流しながらP.K.ディックのSF小説を読んでいるような感じ?
 ――さて、ももクロ聴きながら(!?)ディック『空間亀裂』を読みますか。憂い事はたくさんあるが、いまは夜中だ。じたばたしても始まらない。「行くぞぉ、お前らぁ!」と心のなかで叫ぶのは、明日の太陽が昇ってからだ。◆

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