第1304日目 〈ホセア書第3章:〈神の愛による回復〉~愛は法を超越する。withブラッドベリはもういない。〉 [ホセア書]

 ホセア書第3章です。

 ホセ3:1-5〈神の愛による回復〉
 イスラエルの人々がバアル神へ顔を向けてもなお、主はイスラエルを愛す。
 汝ホセアよ、と主がいった。あなたもかつての妻ゴメルを、わたしがイスラエルを愛すように愛しなさい。
 異論のあろうはずがない。わたしはさっそく行って、銀15シェケルと大麦1ホメル半を支払い、奴隷となっていた彼女を引かせた。
 然る後、わたしは彼女にこういった。わたしはお前の夫でお前はわたしの妻である、ゆめ他の男に肌も体も髪も心も許すな。われらは永く一緒にいる。
 これからしばらく、イスラエルから秩序は失われ、混沌の時代が訪れる。しかし、その時代のあとには、帰ってきたイスラエルの人々は主と王を求める。終わりの日には主とその恵みに、かれらは畏れを以て近附く。

 愛人のあとを追って自分の許を離れ、バアル神に香を焚いて端女となったゴメルを身請けすることで、ホセアは彼女を再び妻に迎えます。それは背信を重ねるイスラエルをなお主が愛するのと同じ行為でありました。主がそれをさせたのです。
 が、申21:4で「夫は離縁した妻を再び娶ることはできない」と定められています。ホセアはこれを破りました。
 神の愛の前に万人は平等であり、神の定めた法の前にも万人は平等である。わたくしは本章を読むと、そんなことを思うのであります。愛は法を超越する、良きにつけ悪しきにつけ。そんな普遍の事実、しかし法ではけっして裁き得ず、定め得ない現実を、このホセ3は語っている。そう思うのであります。果たして、否(ノン)、を唱える方がありましょうか?
 P.C.クレイギはそんな本章を指して、「旧約聖書における愛の福音が語られている」(『十二預言書1』P53 山森みか・訳 新教出版社 1989.6)と述べております。わたくしはこれに深く頷く者であります。
 とはいえ、なんといいましょうか、幾ら主の言葉に後押しされたと雖も、本章に於けるホセアの行動の裏には、純情の名の下に隠された童貞の執着心のようなものも感じます。相性良かったのかもね。或いは、虜になったのか。童貞が手練れた女に出会うとそうなることもあるよな。うん。沢山いますよね。
 ――、
 本章ノートはちょっと苦労した。一旦は仕上がったものをもう一度書き改める羽目になったぐらいに。そんな過程を経たお陰で少しはまともになったと思うのですが、どんなものでしょうか?



 ブラッドベリ『十月の旅人』(新潮文庫)をブックオフで購入しました。懐かしいな、この表紙、この内容、そうして伊藤典夫の翻訳と解説。
 10代後半から20代初めにまとめて読んだなかの1冊だが、或るときまとめて処分してしまった。それなりに夢中になったけれど、今一つのめり込むことが出来なかったっけ。
 人生も折り返し点を過ぎたいま、なぜだか再びブラッドベリが読みたくなって、ぽつぽつ集め始めた矢先に逝去の報。ノスタルジックな肌合いに慰撫されながら、もう決して戻らぬ時代と時間を悔やみながら、1冊1冊と読み進めている。こんな読み方も許容してくれるブラッドベリはもうこの世にいない。それが、心底淋しい。◆

共通テーマ:日記・雑感