第1307日目 〈ホセア書第6章1/2:〈偽りの悔い改め〉with現役引退の椅子に、どんな言葉を掛ければいいのだろう?〉 [ホセア書]

 ホセア書第6章1/2です。

 ホセ6:1-6〈偽りの悔い改め〉
 さあ、われらは主の許へ帰り、主の前に生きよう。主を愛し、畏まろう。主はわれらを裂き、打ったけれど、傷を癒し、包みこんでくれる。3日目になれば立ちあがらせてくれる。われらは主を知ることを追い求めよう……。
 ――わが民イスラエルとエフライムがそういう。わが民ユダがそういう。しかし、わたしはお前たちをどう扱うこともできない。お前たちが口にする<愛>は空虚だ。偽りだ。なにを以てお前たちを信じよというのか。
 それゆえにわたしは預言者を以てお前たちを倒し、わが言葉を持ってお前たちを滅ぼす。わが裁きは光のように素早く、一瞬で下される。覚えておけ、「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセ6:6)ということを。

 前半は<悔い改めの詩篇>です。3日目になれば云々、というのが問題になると思います。ここに処刑されたイエスの復活を見る人もいます。が、そう十把一絡げにメシア預言と考えるのはどうなのか。
 「3日目」とは、――それぐらい経ったらあなたもわが身を省みて、自分の所業を悔い改め、もう一度自分の足で立ちあがろうとするでしょう。ね?――ぐらいの意味で取った方がよいだろう、と、キリスト者でないわたくしは思うのであります。
 お馴染みP.C.クレイギは著書のなかでこれが「本来の意味においては救世主を示すものではない」と前置きした上で、「それはただ、悔い改めた人のただなかに、もし彼が真に神に立ち帰るなら希望が生じ得ることを示しているだけである」と説きます(『十二預言書1』P82 山森みか・訳 いのちのことば社 1989)。
 この悔い改めの詩篇のなかにはとても良い文言があります。ちょっと引用しちゃいましょう。曰く、――
 「我々は主を知ろう。/主を知ることを追い求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」(ホセ6:3)
 なかなか響くところのある文言だと思いませんか。偽言の文脈のなかにあるので見過ごしがちですが、切り離して鑑賞してみれば噛み応えのある詩篇であります。特にいま引用した節は、キリスト者でない者の胸の奥にまで染み渡ってゆく慈雨の如きヒーリングの力を孕んでいる、と思います。
 ここに、<情(こころ)>とか<愛>という心底からの感情を流しこめば、<さあ、立ちあがろう>というメッセージになる。まさしく、“Come on up for the rising.”(B.S"The Rising")である。――牽強付会?
 神は言葉を以て世界を創造し、言葉を以て世界(イスラエル)を滅ぼす。ユダヤ/キリスト教の神は言葉を用いて行動を起こす存在なのだ。



 今日(昨日ですか)IKEAから回転チェアとフロア・プロテクターが届きました。でも日が良くないのでプロテクターを敷いただけ、椅子を組み立てて部屋に運びこむだけの状態にしたところまで。
 いま坐っている椅子は現役引退、近日中に資源ゴミとして市に回収依頼済み。家を建て直してから今年の今月でちょうど9年。――いままでありがとうね。ずっと支えてくれて……。どうやって感謝の言葉を捧げたらいいか、わからないよ。◆

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